キリスト教と現代科学の時間の差

西洋文明(キリスト教)では、人類の歴史は、約7000年だけだという説もあり、現に西暦2000年を超えた現在、本来ならもうじき大艱難の時代、そのあとに来る1000年王国、ゴクとマゴクの戦いのあとに最後の審判で人類と宇宙全体の歴史は終焉するのです。
(1000年王国は存在しないという説もあります。だから西暦3000年頃まで人類社会の歴史が続くと思われるです。)

科学的には多くの突っ込みが入れられそうですが、創世記ではビックバーンで全宇宙が創られたということはキリスト教会では否定されております。現代科学では、大部分の物理学者や天文学者ではビックバーン説を支持しており、その証拠に、遠い銀河系ほど、速い速度で遠ざかっており(赤方偏移)とか、ひじょうに遠い宇宙の彼方からマイクロ波が全天から放射されており、それがビックバーンの名残だというのです。

その意味では、宇宙の始まりは137億年前であり、地球の歴史は46億年。
キリスト教の聖書解釈では、創世記では、ある牧師の説だと、文字通り6日で全宇宙を創造したというのです。アダムとエヴァの時代から、約7000年しか人類の歴史は存在しないのです。

でも現代科学では、人類は300万年前に誕生し、文明が発祥したのが、5000年前であり、また、アメリカ大陸の原住民は、1万5千年前に北アメリカに定住し狩猟をしながら南下していったのです。

キリスト教信仰を信じるものとしては、創造論は部分的に認められるのは、人間の祖先はサルではないことです。地上にいる生命体は神様が創造したものであるが、妥協して科学的に考えると、旧約聖書の創世記の一日目という概念は文字通りの24時間ではなく、数億年ではないかと思います。

個人的に創造論を支持する理由は、生物が必要とする炭素が作られるには、何度も太陽の100倍近くの恒星が超新星爆発(核融合)を繰り返さないと、生物の元素である炭素分子が作られない。また地球上には重い元素である金属からウランまである。宇宙が創造されてから、多くの星が何度も爆発と誕生を繰り返しながら、地球上の元素ができあがっているので、そうなると地球に人間が住むのに適した環境にするには数十億年くらいの時間が必要だと思います。

さらに、太陽系での地球の位置が、ちょっとでも太陽から遠かったち近かったりしたら、人間のような知的生命が住める環境にならなかったのではないかと思います。

さらに不思議なことに月の存在があり、月のおかげで地球は正常に自転できるのです。

偶然の産物では、かなり確率が低いのです。

無神論の現代科学では、地球は偶然の産物であると考える学者もいますが、多くの宇宙飛行士は、地球は偶然に作られたものではなく、なんらかの神秘的な偉大な意志によって地球が作られ、そこに人類と言う知的生命体が住むように計画されたと考えがほとんどです。

たしかに暗黒の宇宙にポツリと生命に満ち溢れた惑星をみれば、そのように感じるのです。

その意味で、人類の歴史は、最大なら無限であるという人もいれば、太陽が巨大化した遠未来である60億年後には滅びるとか、または、2億5千年後には地球上の海の水が地面に吸い込まれてなくなれば、酸素を供給量がないため、地球が現在の火星のような環境になるために人類は滅びるとか、あとは、地球は温暖化と寒冷化の繰り返しがあり、極端な寒冷化(氷河期)が500万年後に来れば人類は絶滅すると言う説があります。

ある科学者は21世紀中に人類は滅びる要素がたくさんあるから、22世紀は来ないと信じている人もいます。

科学者によって人類の歴史の長さは違うのです。
まず現代科学は、時間がたつと仮説が変わることがたびたびあるのです。
また科学者の学閥というのがあり、科学とは多数派が正しいとみなされているのです。

さらに、創造説を信じるのは、復活という物理的には説明できない現象が神様の力でおこなわれるなら、逆に言えば土から人間を作ることも可能だと思うのです。最後の審判のときに、全ての人たちが復活する。その復活はどんなものか知らないが、たぶん何らかの生命を持ったもの、または、霊的なものだと思います。それは想像を絶するものですから言葉では表現できないです。

古代の人たちは、現代のクリスチャンの葛藤を感じることなく自然に対して畏敬の念=神様への畏敬の念を抱いたと思います。

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やはり地獄はあると信じなければ人間は悪を喜んでするようになる

キリスト教が極端に衰退している地域は、「万民救済説」すなわち「どんな悪人でも死後の世界では救われる」とか「地獄は存在しない」という極端な神学を信じている教会が多いところだと思います。

「神様は無限の慈悲と愛を持った御方」ということは、逆に「無限の正義の御方」であるので、個人的に思うのは、地獄は存在すると信じなければ、どんどん悪い方向へ向かってしまい堕落してしまうと思います。

もし「地獄はない」ということが実証されると、人間は自分に甘く意志が弱い存在だから、自分中心の思考になり、きびしい競争社会で周囲の人の足を引っ張ることに夢中になるか、逆に、この世に何の未練がないと思って自殺するしかないです。

「地獄がない」という事が実証できたとしたら、万引きも平気でできるし、自分よりも弱い人に辛辣な態度をとっても何の罪悪感も感じない。ようするに、今まで良い人でいることが苦痛だった人とか、良い人であることに疲れた人などは「地獄がない」という宗教を熱心に信じると思います。

逆にキリスト教会(プロテスタントのメソジスト派など)では、ジョン・ウェスレーが、地獄の恐ろしさについての説教をしたときは、あまりにも恐ろしい話のために、年配の女性が失神したという伝説もあるようです。キリストを信じてキリストの戒めを知っていながら守らない人は、キリストを知らない人よりも厳格な裁きを受け、自分はクリスチャンになり、何も大きな罪を犯していないと思って確実に天国に入れると確信したのに、地獄に落とされるということです。

どの基準で天国に行けるのか地獄に落ちるかは解らないが、もし地獄がないと信じたら、何をしても罪にならないと思って、自分勝手な生き方をしてしまうと思います。

クリスチャンの場合、信じるだけで自分の好き勝手で自己中心的な生き方の最悪の生活しても、地獄に落とされることは逃れると思うと、本当に自分勝手になり、どんどん悪に手を染めてしまい、最後には誰からも相手にされなくなり、地獄に落とされるのではないかと思います。



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西ヨーロッパのキリスト教会は教会としての機能を果たしていない

ヨーロッパ系のクリスチャンの大部分は、カトリックかギリシャ正教であり、プロテスタントは極少数派であるから、現代の日本のキリスト教徒の比率よりも少ないかもしれません。

最近は西ヨーロッパのキリスト教会がイスラム教のモスクへと改築されることが非常に多くなっており、また、7000人が収容できる巨大モスクの建設が計画されています。

ようするに西ヨーロッパはキリスト教圏ではなくなったのです。

逆に東ヨーロッパでは、ギリシャ正教の信者が圧倒的に多く、逆に元ソ連邦だった中央アジアではギリシャ正教への改宗者が増加しているのです。ようするにソ連共産党時代には宗教弾圧が強く、あらゆる宗教の聖職者を処刑してしまった結果、多くの人を引き付ける人材がほとんどいなくなり、なんちゃって聖職者が外国人観光客をひきつけるために、宗教施設でお酒を呑んでも良いとか、また、日本的な言い方すれば「拝観料」としょうして、観光客からお金をとることで生活を支えていたのです。

だから地下に潜伏した有能なギリシャ正教の信者が、ソ連邦解体後に伝道活動をして、被害を免れた信者による伝道活動によって東ヨーロッパでは、信者が増加傾向となっているのです。

その意味では、中南米やアフリカ大陸南部と東ヨーロッパがキリスト教圏であり、かつてキリスト教圏の西欧や北米は宗教的空洞地帯か近い将来イスラム圏になる可能性が高いです。(西ヨーロッパのプロテスタント教会では、クリスチャンにならなくても天国に行けるという神学があるため全然伝道活動も日曜礼拝もしないのです。)

西ヨーロッパの古いキリスト教会は、日曜礼拝をしない、むしろ観光地にして「拝観料」を取る事で牧師の生活資金にするのです。そのため、プロテスタントの信者の比率は日本よりも低いのですから、キリスト教=カトリック教会しかないということになり、プロテスタントはキリスト教系新宗教という扱いであるが、全然、伝道活動をしないから、次から次へと、他の宗教の施設へと改築するという状況です。

プロテスタントの教派は無数あり、それぞれ教義や聖書解釈が異なるので、なにが真実なのかわからないため、それでモルモン教に改宗する場合があるのです。

モルモン教は頑ななほどに「原始キリスト教会を回復させた」と強く主張し、他のキリスト教会は背教した人間が勝手に作った宗教だとみなしているのです。

実は、宣教師からモルモン経をもらって、本を読んでみましたが、これは初めから読めば、矛盾だらけなんです。

簡単に言えば、カラカラに乾燥しているアラビア半島を、食料も水も持たずに、一家そろって現代のイエメンまで徒歩で歩いてたどり着くのは奇跡であり、物理的には不可能だと思うのです。

強盗がいるなら、周囲には猛獣がいることになるが、強盗にきずかれずに、猛獣を捕まえるのは命がけであり、さらに、東京から名古屋までの距離に行った時に、リーハイが「聖典がどうしても必要だ」とわざわざエルサレムに戻し、そこで聖典(それも真鍮版の重たいもの)を取りにいくために、殺人をして、さらにニーファイが声色を使って、召使を誘拐して、そのまま連れて行くのは、現代でいえば強盗殺人と誘拐事件だと思います。

彼らは何も食料を持たないで、弓矢で獲物を取るが、神様の啓示で火を使うなというから、生の肉を強い日差しで干したのではないかと思うが、それだと、ビタミン不足に陥り、体調不調を起こして、満百キロの距離を徒歩で、炎天下の砂漠を歩く体力はなく、普通の人間だったら途中で野たれ死んでしまいます。

ましてイエメンから何の知識もなく、さらに、ニーファイが作った船が、どこの陸地に休憩せずに、そのまま1万キロ以上の距離を海でわたることは、どう考えても不可能だと思います。
(ニーファイは船の知識がないのに、インド洋と太平洋を渡る船を作り上げてしまったのです。また、航海の知識も世界地図も無いのです。どうやってアメリカ大陸に渡れるのだろうか?)

インド洋から太平洋への距離は、気が遠くなるような距離です。

だから、現在の自分の思考力があれば、科学的な矛盾がたくさんある部分を読んで、モルモン教には改宗しなかったと思います。

それでも、日本には2万人もの熱心なモルモン教信者がいるのです。

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地獄は絶対に存在しない論について

現在のキリスト教では、「万人救済説」とか、それをより強調した「地獄は存在しない」とい力説するクリスチャンがたくさんいます。

キリスト教神学を学べば学ぶほど、「地獄はありえない」「神様は無限の慈悲を持ったお方だから、どんなに冷酷で残忍な犯罪を犯した人間でも自動的に天国に行ける」だから「キリスト教会不要論・日曜礼拝不要論」があり、また、クリスチャンではなくても天国にいけるから極論を言えばキリスト教は現代社会に必要はない!と力説するのです。

要するに、「地獄」という概念は仏教的なものであり、「地獄」の存在を認めるものは異教に影響されたクリスチャンであるから、純粋な信仰ではないと言うのです。

その根拠とは、キリスト教を知らないで亡くなった祖母・祖父は知らなかっただけで地獄に落ちるのではないかという不安もあり、それだと今頃は地獄の底で24時間、休みなくのた打ち回っているのではないかということになり、そのような考え方は、神様の無限の愛を否定することであり、そもそも地獄という脅しは異教的だから、地獄は絶対に存在しないとなるのです。

だから、キリストが十字架にかかった時に、キリスト教の役目は終っており、その役目が終ったキリスト教信仰では、絶対に奇跡も起きないと力説するのです。西暦2世紀の時点で、キリスト教会の役目は終ったということになるのです。

ようするに、ペンテコステ派の信者が、祈ったら奇跡が起きたというのは、神様の力ではなく、悪魔の仕業だとみなすのです。現代では、どんなに強く祈っても、どんなに長時間祈っても絶対に奇跡は起きるわけないというクリスチャンが多いのです。

地獄は存在しないから、神様に従順である必要はなく、わざわざ良い人になって、隣人愛に満ちた人になる必要はなく、自分が嫌いな人間には意地の悪い事をしても、無限の罪の許しがあるから、どんなに他人に辛酸な思いをさせても絶対に裁かれないというわけです。

ようするに、神学を学べば学ぶほど、性格が悪くなる傾向があります。

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逆に、一部のペンテコステ派では、永遠の地獄を強く主張するあまりに、たとえクリスチャンであって、悪霊を追い払い、奇跡を体験した人でも、隣人に冷たい人は、最後の審判では、「わたし(イエスキリスト)となんのかかわりもない。そこから出て行け!」と永遠に続く、かなり激しい苦痛が及ぶ地獄に悪魔サタンと悪霊ともに地獄に落とされるのです。

地獄の恐ろしさは言葉では表現できない。一瞬でも見たら、どんなに精神的にタフな人間でも発狂するほど、酷いところだと強く主張しています。

ある意味では両極端な主張がキリスト教(プロテスタント教会)ではあり、中庸な神学論は、ごく稀なんだと思います。

よく近所のキリスト教会をお勧めしますと言われますが、個人的には、論理的で道徳の必要性を強調するキリスト教会をお勧めします。それが多少、自分の家から遠い場所でも、近くの狂信的な教会とか、カルト宗教的なキリスト教会には通わないほうが無難だと思います。

また、正常なキリスト教会でも、一部には上記のような極端な神学を強調するクリスチャンも一人や二人いるかも知れませんが、そのような人には、あまりかかわらないほうが良いと思います。


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キリスト教の死後の世界の状態は現代語では表現不可能

神様は無限の御方なので、全宇宙に遍在しており、たとえ光子力ロケットに乗って、アンドロメダ銀河へ400万光年先に行っても、神様からは絶対に逃れられないのです。
(極論を言えば、アンドロメダ銀河に行っても、キリスト教信仰を続けることはできるのです。)

そもそも銀河系だけではなく、超銀河団が集まった所と、全く何もない無限と思えるほどの暗黒の超空洞があり、全宇宙の姿は「泡」のような形になっているのです。まして地球上から観測できる銀河は、わずか1パーセントしかなく、それでも認識されているのは2000億以上の銀河です。

神様は無限の御方ですから、無限のエネルギーという概念が必要であり、死後の世界とか、または、最後の審判後の世界などは、全宇宙がとても小さく見えるほど、巨大なものではないかと思います。

たとえば、1円玉の大きさが全宇宙だとしたら、最後の審判後の世界とは、現在住んでいる全宇宙の大きさ(半径137億光年)なので、無限の神様からみれば、人間はウィルスの大きさにも満たないほどであり、最後の審判のあとの天国と地獄は、現代のどの言葉でも表現できないものではないかと思います。

ようするに生身の人間が天国や地獄を見たら一瞬で発狂してしまうようなものだと思います。

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仏教と現代天文学が酷似しているのが不思議

古代インドでは、巨大な蛇の上に、巨大な像が乗っていて、像の背中に地球(を半分にしたもの)となっているのが古代の宇宙観でした。

実は、それは仏教以前の宇宙観であり、仏教では宇宙は誕生して成長してから、最後には萎んで死ぬ。そして、また宇宙は誕生して、同じように成長して、最後には萎んで死ぬ繰り返しの教義があり、さらに、全ては素粒子からできていると教えているので、紀元前500年ごろの人が何故、現代物理学の知識を持っているのか謎です。

また、西洋では、最高でも兆までの数値しか表記できないので、それ以上の数値は×10の何乗と表現するのです。

現在では西洋(3桁)やインド(2桁)、東洋(4桁)など国によって数字の大きさを表記が統一されてないので、数値の10の何乗というように世界的に統一されています。これは天文学によく使われる数字の表記方法です。(最近は「ギガ」「テラ」バイトというようにな命数法が使われています。)

日本では一般的には、億とか兆までが使われており、それ以上の大きな数は、あまりつかわれないのですが、江戸時代に成立した名数法が現在でも使われています。

兆や京から、21の数字の桁を読みますと、まるでお経をあげいるような感じになります。
逆に小さい数字も、同じようにお経をあげているような感じなります。
江戸時代の数学に仏教の影響が入ったからだと思います。

ようするに無限への向けての命数法とは、「仏典の数詞」があり、なんと最大の数は「不可説不可説転」であり、天文学・物理学的な表記だと、10の37澗乗ですから、普通の人間の感覚では無限とほぼ同一なのです。

また、仏教では普通の生活ではほぼ使わない数を頻繁に使うため、そのために江戸時代では数学がとても重要視されたため、和算が発展しました。和算は西洋数学とほぼ同じくらいのレベルでしたので、明治時代初期に訪れた西洋人は、日本の輪算をみて驚いたのです。

キリスト教文化圏では、とくに古代社会となれば、一万以上の数は数え切れないし、普通の生活ではそれ以上大きな数字はありえないので、一万以上は無限とみなされました。

変なたとえですが、アフリカの未開人などは、1・2の次が「たくさん」とみなすのと似ているのです。アフリカの未開人では3という数字の概念が無い部族もたくさんおり、また、よくても手足の指の数の20までが限度なんです。

もしかしたら、紀元前以前の古代社会は、ほとんど記憶がなくなったため、見下した歴史観があるが、実は現代に近いほどの科学的知識を持っていたのではないかと思います。そうでなければブッタの教義が現代天文学や物理学と一致するわけないです。


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臨死体験をしないと人格は変わらない人間の弱さ

まず初めに、宇宙は無限に近いほど広大であり、大部分が謎に満ちている。
地球上では表現できないほどの、無数の桁を使った数字でないと表現できないほど、宇宙は広大でありエネルギーに満ち溢れている。

それは何を意味しているか。現実世界でさえ、兆とか京とか該という数字で表現するほど非常に大きなものとすれば、来世、死後の世界、さらに最後の審判の後の世界は、数字で表現するとなれば無量とか大数という桁でも足りないほど巨大なものだと思います。

キリスト教では、「無限」という概念がないと教義を説明できないのです。

だが、その無限というものを誤って使うと人格に、ひじょうに悪くさせる場合があり、いままで温厚でとても優しい人が、無限の慈悲、無限の赦しという概念を持つと、自分には利害が無い人に対して、とても冷たい態度を取ります。

たとえば、吾妻ひでおの「失踪日記」では、配管工をやっていたときに、とても意地の悪い同僚からの徹底的にいじめられ、他の社員でさえも彼をとても憎んでおり、ある人は、一日中ねちねち言われたために、半日でぶち切れたのです。何十人もの新人が辞めたのです。

「失踪日記」では、配管工を辞めたのは、吾妻先生と、いじめられた同僚が、性格が悪い同僚の悪口をトコトン言っているときに、社長が来て、相談に乗ったが、結果的には「気まずい雰囲気になり」配管工の仕事を辞めてしまいました。

ようするに無限の慈悲、無限の罪の許しの概念があると、クリスチャンになる前は、温厚で優しい人も、無限の罪の赦しという概念によって、他人に対して辛辣な態度を取り付ける、吾妻先生をいじめた同僚と同じ性格になるのです。

自分には利害がない人間は人間としてみない人間は、たぶんどこのキリスト教会にも多々おり、一部の人は歓迎するが、「無限の慈悲、赦し」を強く信じている人にとっては、初めて教会に来た人に対して「もうこなくてもいいよ!」とか言う場合があり、または、話しかけても挨拶しても完全に無視する場合もあります。そのような人がたくさんいると、日本からキリスト教を信仰をする人がほとんどいなくなると思います。

その意味で、そのような人は臨死体験で非常に恐ろしい思いをしないと、なかなか性格を変えていくことはできないと思います。

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無限の慈悲と愛で天国に行ける加藤智大とは

日本の自殺者数は年間3万5千人以上で、ほとんどの人が自殺するまえに、精神科に行ったり、なんらかのカウンセリングを受けたり、また弁護士と相談をしても、ほとんどがまともに相談してくれないで、ただお説教をするだけです。

よく自殺をしたという事件があると、「自殺する前に一言、相談してくれれば良かったのに」とつぶやく人もいますが、自殺をする人は、何らかの上記の専門カウンセラーを何件か相談しても、どこもお説教で終ってしまい、それで何の問題解決にならないから、最後の手段で自殺を選択するのではないかと思います。

土曜日の夜などは、あちこちの居酒屋を梯子してお酒を飲むのですが、たぶん、カウンセラーなどの仕事をする人は「人間の一人や二人、自殺しても、こっちは痛くも痒くもないんだ。バカヤロー!!」と酔っ払いながら大声で叫ぶのではないかと思います。

その意味で、カウンセラーは何の知識も訓練もなくても誰でもできる職業だと思います。
ある意味では、これほど責任が重いにもかかわらず、思ったよりも楽な仕事だと思います。

ネットでは、延命治療を止めるようにという意見も多々あり、さらには、人生に疲れた人までも安楽死させる施設を作るようにという要望が強いのです。

もし秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告に対して親身になって相談する人がいれば、あのような悲劇は起きなかったと思います。たぶん、まともに相談に乗ってくれる人がいないから、ネットで日頃の鬱積を文章にして、ほとんどの人が相手にしないから、あのような事件を起こす切欠になったと思います。

今頃は拘置所にいると思いますので、何件かの宗教団体の信者や聖職者が手紙を送ったり、面会に来ているかもしれません。そうなる前に、本当は宗教団体が親身になって相談をしてくれれば、あのような事件はなかったかもしれません。

ただ、キリスト教にもいろいろあり、おなじプロテスタントでも、進化論を信じる教派もあれば、創造論を信じる教派もあり、同じクリスチャンでも無数の思想があるのです。

特にプロテスタントでは思想が両極端になりがちであり、キリストの無限の慈悲を強調するあまりに、ヒットラーでも、加藤智大でも、または、女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人たちでも神様の無限の罪の赦しがあるとして、地獄は一切存在しない、どんな凶悪な人でも天国に行ける。たとえキリスト教に対して様々な批判や妨害、暴言をする人でも、無限の慈悲によって、赦されるという思想と

たとえクリスチャンでも、大部分が無限の苦痛が永遠に続く、非常に恐ろしい地獄に落ちるという意見もあり、名指しで「福音派」は偽キリスト教だと批判する人たちもいるのです。

だから、どこが正しいキリスト教なのか、あちこちのキリスト教会に通って見るべきだと思います。

たしかに、現代の司法では、加藤智大は99パーセントの確率で死刑になると思いますが、彼を英雄視したり、または同情的な意見も多数あります。

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「無限の愛と赦し」論では、ヒットラーは天国にいる

ルター派・カルビン派の予定調和説とか奴隷的意志論者は、世界の歴史は神様が創ったのもだから、戦争や赦し難い犯罪事件、残虐な行為も全て神様の計画だから、完璧な歴史なのです。

だから、ヒットラーも幼児期に洗礼を受けたら、自動的に神様からの「無限の愛、無限の慈悲」すなわち「無限の罪の赦し」があるので、神様から一切、ユダヤ人虐殺については裁かれず、完全に罪が無い状態ですから、ヒットラーが地獄に堕ちるのはナンセンスで、それらの説が正しければ今頃は天国にいるのではないかと考えられます。

逆に被害者側の多くのユダヤ人は異教徒ですから、どんなに善良なユダヤ人でも自動的に地獄に落ちるということになるのです。

極論を言えば、幼児期に洗礼を受けた人が、仮に冷戦時代に核ミサイルのボタンを押して、全面核戦争で全人類を滅ぼしても、核ミサイルのボタンを押した人も、「神様の無限の許し」によって、地球を滅ぼしたことでさえも、罪に問われないで天国に行けるわけです。

たとえ地球上の全生命体を全て滅ぼしても、いったんクリスチャンになった人、極論を言えば、キリスト信仰を捨て、キリスト教会を滅ぼすために尽力を尽くした人が、地球を爆発させても、「無限の罪の赦し」によって、キリスト教会への反逆と地球を爆発させたという罪は一切咎められず、裁かれず、天国で完全な救いを得る事ができるのです!

だから、西ヨーロッパにたくさん立派なキリスト教会(プロテスタント)がたくさんあるのに、日曜礼拝が、何百年間も行われないのか、それは、全然キリストのことを信じなくても洗礼をほどこせば、自動的にクリスチャンになるから、そのあとは、どんなに自分勝手な生活や快楽を追求しても天国に行けるから、日曜日に教会に行く必要がないのです。

そのため、礼拝に行く人がいないのではなく、礼拝は不要であり、日曜礼拝は過去のものとなり、牧師もただ幼児に洗礼(滴礼)を施すだけで、天国に行けるのです。

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反モルモン運動が急激に衰退したのは、無教会に改宗した元モルモンの人が、上記の伝統的プロテスタントの教義を頑なに信じたため、おなじ反モルモンの人間への辛辣な批判がメーリングリストで行われ続け、次第に反モルモン運動から離れてしまったからだと思います。

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「無限の罪の赦し」論となれば、なにもキリスト教会そのものがなくなっても良いのです。
洗礼を施す牧師が勝手に、牧師事務所に連れてきて、洗礼の水を振り掛けるだけで、多くの人が救われる事になるからです。

だから日曜礼拝は不要であり、また全然聖書を読まなくても、神さまに祈らなくても、(一時的に)信じるだけで、どんなに残酷な犯罪を犯しても、無限の罪の赦しによって、救われるのです。



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胸(心臓)の痛みを感じて元気になった

最近は極端に肥ってしまったのは、ストレス解消は美味しいものをたくさん食べるしかないためで、そのために、10月の初めに、胸にチクチクした傷みを頻繁に感じるようになりました。

それが、突然に胸の中にガラスの破片が突き刺さったような傷みを感じた時、ヤバイという気持ちよりも、「もうじきお迎えが来る」という喜びがあり、それが切欠で、以前よりも元気になりました。(酷い鬱状態が治まりました。)

毎日、部屋に閉じこもっていると、何もする意欲もなくなる。ビデオソフトを観る意欲もなくなる。インターネットをする気にもなれず、ただ寝ているだけ。起きたら、すぐに精神安定算を飲んで、また寝ることを繰り返す生活をおくると、気分傷害になり死にたくなるようになります。

時々、この世の不条理に怒りを感じて、イライラすると、コンビニに行って弁当を三つくらい買って食べるが、

食べない時は一日中何も食べる気になれない。お腹すいても買い物にもご飯を作る気持ちにならないです。


鬱が酷い時に食欲がでるのは、イライラが強くなった時です。
そうなるとコンビニの弁当を三つに、アイスクリームも食べるから、意地でもお腹に詰め込んでやると言う事になるのですが、結果的には、肥りすぎは心臓にかなり重い負担をかけることになります。


その前に、教会の人が、日曜日の午後に訪問してくれたりして、とても嬉しい気持ちを感じました。

教会に行こうかなと思ったときに、胸の内部にガラスの破片が刺さったような傷みを感じ、意外と自分の寿命は思ったよりも短いと思うと嬉しくて感じました。苦しいけど嬉しいと言う感情です。

またガラスが突き刺さったような傷みが来ないかと期待したが、良くても胸がチクチク痛んだり、寝ているときに心臓がドキドキするとか、横になって寝ると心臓がやたらと苦しく感じますが、これだと軽い症状なので、はっきりと心臓が悪くなったとおもえないので、また、最近は鬱ぽい気持ちになります。

「もうじきお迎えが来るような」身分となれば、本能的に、悪い事を悔い改め、人の好き嫌いを止めて、もっと優しい良い人間になろうという気持ちになるのです。

神学的には、ルター・カルビン派などの伝統的キリスト教では「無限の赦し」という神学論があり、極論を言えば、一旦、クリスチャンになって奇跡を体験したあとに、他の宗教に改宗して無差別自爆テロで何百人の人を殺しても、そのひとは、たとえ一時的にクリスチャンになれば、神様との関係は永遠に切り離せない立場になったから、自爆テロで何百人を殺しても、その人は神さまによる無限の赦しによって天国に行けるという神学論があるのです。

または、この世の全ての人災、すなわち戦争や殺人事件から、学校のいじめまで、全ての人間の悪意による行動は神様の計画であり、神様が作った歴史は最善だから、戦争とか(たとえばユダヤ人などの)大量虐殺も神様の正義による歴史だということです。

人間的には、上記の神学論はとても受け入れがたく、それを受け入れる人間は、クリスチャンになる前は、温厚で優しい寛容な性格も、ルター・カルビン派神学を絶対的に正しいと受け入れると、人格が他人に冷たく、自分に利害がないひとには無関心で、強いもの上目の人には良い人を演じて、それ以外の人にはどんなに酷い評価されようとも冷酷な態度を取るようになると思います。

その意味では、あくまでも自分の考えですが、ルターやカルビンの宗教改革の功績も多々あり、人類の歴史に良い意味での影響もありますが、人間性を否定した神学は受け入れがたく、本能的に拒絶反応を起こしてしまいます。

その意味では伝統的プロテスタント教会は、キリスト教ではなく、ルター教とかカルビン教という別宗教ではないかと思うことがあります。

だから、伝統的キリスト教では自殺は最悪の罪というが、「無限の罪の赦し」という神学というものがあれば、自殺は聖霊を汚す否定する罪ではないから、神さまは無限に罪を赦されるので、生きているのが疲れたら勝手に死ねば良いと言う事になるのです。

なかなか自殺というのは、簡単にできるものではなく、かなり勇気が必要であり、万が一失敗したら、また後遺症が残ったらどうするかと考えると、恐ろしくって自殺する気になれません。

たしかに病気を嫌がり拒絶すると、不思議に病気は悪化する傾向があり、

逆に喜んで病気を受け入れるようになると、病気がほとんど悪化しない、治る場合もあるのです。

4年前に、宅配便の仕事をしたとき、労働時間が朝7時から夜中の0時、睡眠時間が3時間。見習いですから、隣には意地の悪いおやじがいて、一日中文句を言うので気が変になりそうで、5日目の朝になったら胸がチクチク痛くなり、次第に傷みが強くなって救急車を呼びました。

緊急医療センターで点滴を受けていとき、すごく穏やかな気持ちになりました。

ようするに心臓の病気は、強いストレスによって悪化するものだと思います。



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大艱難時代の極限的苦痛によって大量の餓死者をだす!

現代の日本でも食糧が行渡り、たとえホームレスでも、残飯を探せば餓死を免れるが、酷く思い鬱病になると、何日も食事が喉に通らなくなり、結果的には一ヶ月も続けば餓死することが現代の日本でもありえるのです。

酷い鬱病になると、食欲がなくなる。一日中、横になって寝るだけで、死にたいという気持ちになるのです。

大艱難時代になると、見た目が平和な社会でも、職場でのイジメとか家族からの虐待などがあり、それが原因で重度の精神障害者になり、たとえ熱心なクリスチャンでも、善悪の区別ができないほど心が混乱してしまい、結果的には、心に深い傷、それに酷く重い鬱病になり、一ヶ月もなにも食べなければ餓死するのではないかと思います。

たしかに現代社会でも、食べ物が豊富である日本でも餓死者がいるのです。

よほど精神的に参っており、その苦痛は想像絶するものであり、数十万円のお金があるにもかかわらず、食事をしないで死ぬ人がいるのです。

大艱難時代では、さまざまな人権侵害もあり、聖書の預言にあるように「お互いが裏切りあう」ため、教会そのものが魂の安らぐ場所ではなくなるかもしれないです。

キリスト教会での、この世最後の時代には、ある説だと、キリスト教が衰退し、別宗教が世界的に爆増となると書かれた本があったと思います。(どの本なのか忘れましたが)

前回の日記に書いたような、地獄の底でも良いから死なせて欲しいと言う状態は、かなり心に深い傷をおっており、さらに、酷く重い鬱病で、自殺する意欲もでないまま、一日をすごし、そのままやせ細って、最後には餓死で死ぬクリスチャンが全世界にたくさんいるのではないかと思います。

クリスチャンだけではなく、他の宗教を信じている人でも、無信仰の人でも、大艱難時代では、様々な災いや人権侵害があり、現代の日本の年間自殺者数が3万5千人だとすれば、近未来社会では、その20倍の年間70万人が自殺する世の中になると思います。

ようするに世界規模の戦争や内戦、それに自然災害以上よりも、自殺者のほうが多くなるのではなるのが大艱難時代ではないかと思います。

だから、最近ではネットの意見を読んでみると、自殺は罪悪視するのは少数派であり、個人が自殺する自由は必要だとか、または、自殺幇助業を一つの産業にするべきで、それを合法化するべきだという意見も多々あります。たとえ健康な人でも、心に深い傷を負った人で、この世に未練が無い人のための安楽死施設を建設して欲しいと言う意見が多数あります。

パソコン通信時代なら、上記の事を言えばキチガイ扱いにされたが、現代では自殺の権利を認めるようにという意見が主流になっています。

この世、最後の時代は、善良な人は、より善良な人格者になるが、悪人はより極悪人へとなり、ある意味では人格格差とか道徳格差が極端に広がるようになると思います。

(ようするにキリスト教会でも、2005年に大阪のペンテコステ派教会で女子中学生への性的暴行事件があり、被害者の心にかなり深い傷を負わせてしまったのです。たぶん、牧師は「神様の無限の赦しがあるから、どんなに酷い罪悪を行っても自分は天国に行ける」と本気でおもってまったく反省していないと思います。「無限の赦し」を間違えて解釈すれば、取り返しがつかない悲劇がおきるのです!)

大艱難時代は、死ぬ意欲がなくなるほど、ひどいうつ病になって餓死する人が激増するのではないかと思います。別の言い方すれば孤独死とか路上死などが日常茶飯事になると思います。

暗い話しになると思いますが、10年前と現代と比較すると、ネットの世界でも、口うるさい批判をする人がいても、基本的人権を否定する人はいなかったですが、最近のSNSでは、基本的人権を否定するのが人気者になるのです。

また、精神科などは、10年前なら平日はガラガラにすいていましたが、現在では平日でもかなり込んでいます。それだけ、心の病気になっている人もいると思います。
だから、社会そのものが次第に冷たくなり、微小なりとも徐々に、この世の終わりに近づいているのでないかと思うのです。

とにかく大艱難時代とは、自然災害とか戦争や内戦よりも、心の闇による死への誘い、すなわち、紛争や災害の被害者よりも、自殺者のほうが遥かに多いのではないかと思います。

その意味で、極限的な精神的苦痛は、自殺する意欲も失い、そのまま寝たきりになって餓死するのではないかと思います。

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全世界で一斉に集団失踪が、もし起きたら。 2億人が取り囲んだら?

ペンテコステ派の「空中に取り上げられてキリストと出会う」「正しい生活をした人が断艱難時代直前に天に取り上げられた」ということが、もし実際に起きたとしたら、

たぶん、それが教会の集会中に突然、目の前で教会員が消えるのを目撃したら、それを見ただけで半狂乱状態になると思います。礼拝堂の中で数十人が突然消えてなくなり、残されたのが、信仰心が弱い人とか、まだ求道者で信仰的に迷いがあるひとのみだったり、

逆に教会で人格者だと思われた人の家を訪問したら、誰も出てこない。一晩中電気がつけっぱなしになっている。数週間たつと郵便ポストに大量のチラシがそのまま入っている。もしかしたら突然死による孤独死ではないか思って、ドアを無理やり空けたら、誰もいない。部屋中の窓に鍵がかかっている。不可解な事件とみなされます。

さらに、一家揃って突然失踪とみなされ、何日たっても電気がつけっぱなし、当然、ガスも水道も使われないので、不信に思って家の中に入ったら、残ったのは無傷のペットがいるだけ。

強盗が入った痕跡もなく、通帳や現金も取られた様子もなく、家の中にいた人だけが突然失踪。

世界中で一斉に突然失踪したというニュースが全世界で話題となり、世界の人々はある種のパニック状態になると思います。

または、職場に6日以上無断欠勤をしたから上司が尋ねたら、ドアが閉まっており、アパートの管理人を呼び出して、予備の鍵で開けたら誰もいない。

そのような奇妙と思える失踪事件が全世界で同時に起こると、いままで生ぬるい信仰生活を送った人は、今後来る艱難時代の恐怖に怯え、まれに、将来を悲観して自殺するクリスチャンもいるかもしれません。

ある人に何度もメールを送っても返事が返ってこないなど、さまざまな不可解な状況になると思います。

当然、人工衛星を使った捜索活動をしたり、警察官が集団失踪した人たちが暮らせる場所をあちこちさがしまわっても、全世界から失踪者が誰一人みつからない。

地上に残されたクリスチャンは、これを大艱難の前触れと言う人もいれば、あくまでも自分たちの教派の教えに固執して、不可解な集団失踪事件としてみなすだけで、いつもどおりに日曜礼拝を行うかもしれません。

もし大部分のキリスト教会から人格者がいなくなれば、目を見張るように礼拝出席者が減少しだし、必然的にキリスト教が衰退すると思います。

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大艱難時代の最後には、ハルマゲドンの戦い。イスラエル包囲されるが、包囲する軍隊が2億人とは・・・!

現代のイスラエル共和国の周辺国の人口が2億人ですが、発展途上国のみが人口増加しておりますので、近い将来は3億人以上になると思います。

イスラエル共和国の面積は、およそ20,770km²という狭い国土の周囲に2億人の軍隊が駐留するのは現代の科学力では不可能です。さらにイスラエルと敵対するのがアラブ諸国なので先進国の最先端技術を使うことはできません。

南北には470kmの長さですから、普通に計算したら、周囲に極超高層ビルの高さの城壁で2億人が収容できる建ものでない限りイスラエルを包囲できないと思います。要するに、小松左京のSF小説「物体O」のような、成層圏に達する巨大な城壁で取り囲まなければ、2億人もの兵士を収容できないと思います。

極論を言えば、物体Oみたいに何の前触れもなく突然イスラエルを取り囲めば、海外と一切交流や貿易できなくなり、当然、食料不足に陥り、ハルマゲドンの戦い以前に、半年以内で全てのユダヤ人が餓死するのではないかと思います。

ただ餓死するのを待つようなユダヤ人ではないので、対応策として、原子爆弾で巨大な城壁を破壊するのではないかと思います。

現代の科学力では、一夜にしてイスラエル共和国を取り囲む城壁を作ることは無理であり、未来社会で、たぶん宇宙空間・たとえば月面の裏側で秘密裏に巨大城壁を作り、超高速度のステレス状(レーダーに反応しない透明のような巨大建造物)で突然イスラエルを囲む城壁で取り囲むのではないかと思います。
(光学迷彩・人間の肉眼では見えない2億人が収容できる巨大建造物を宇宙空間のどこかで作るのです。)

(宇宙で2億人が収容できる建造物となれば、それは超巨大スペースコロニーに応用できると思います。SFの世界でも1000万人が限界なのです。)

突然、イスラエルを取り囲んだ巨大建造物が地上に落下すると、その振動でイスラエル全体に巨大地震が起きるのです。バルカン半島やエジプトに大津波と地震の被害を受けると思います。落下速度を抑えるために巨大な逆噴射すれば、逆噴射の圧力によって、強烈な突風が巻き起こり、イスラエルだけではなく、エジプトやアラビア半島にも甚大な被害がこうむるのです。

もう一つの方法は自己増殖力が強烈なナノマシーンを大量に使って一夜にして、超高層状態の城壁を作りあげるのではないかと思います。そうなるとSFの世界です。

そうでもしないと2億人の兵士をイスラエルを取り囲むことは不可能なんだと思います。

2億人は現代の日本の人口の2倍弱で、そんなに狭い場所に兵士に食料をいきわたらせるのもの想像を絶するものであり、また、そこからでる汚物によって地中海は汚染されるのです。大量のゴミも出るわけです。

繰り返し言えば、宇宙空間で2億人が居住できる巨大建造物が作るには、軌道エレベーターによる人類の宇宙進出が必要不可欠となります。軌道エレベーターはテロの標的になりやすく、破壊されれば、水爆数発分の被害となるのです。

その理由で、軌道エレベーターにしろスペースコロニーにしろ、それらが作られる時代は、遠い未来の産物だと思います。テロが一切ない完璧で強固な管理社会が必要です。

極論を言えば、数百年間戦争も内戦も戦争もテロ事件ない完璧な平和な時代が来ないと作れない。仮に近未来の社会で技術的に作ろうと思えば作れるが、全世界の安全性を考えれば、作らないと思うのです。

どう考えても現代の科学力では、イスラエルという国を2億人の兵士が取り囲む超高層状の城壁は作れない。と言う事は、ハルマゲドンの戦いは、遠い未来のことになるかもしれません。

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「人生をたのしんだか」と神様がおっしゃるほど呑気ではない!

仮にペンテコステ派の主張が正しいとしたら、

キリストの再降臨までに、99.99パーセントのクリスチャンが、かなり酷い心的外傷や、酷く重い鬱病のまま再降臨を迎えると思います。全員に近いほどのクリスチャンが心に酷く深い傷を持ったままキリストの再降臨を迎えるのです。

地獄の底だと思えるような、非常に恐ろしい極限的な苦痛を体験をした人だと、

全部に近いほど、正気を失い、善悪の判断ができなくなり、人格が破綻する。正常な生活をすることができないままキリストの再降臨を迎えるのです。

極限的苦痛と思える環境では、発狂寸前になり、たとえ地獄に落ちても良いから死を願う気持ちのみ残るのです。

仮にペンテコステ派が言う、大艱難時代の直前に、数百万人もの熱心なクリスチャンが全世界から一斉に失踪したという事件(正しい生活をしたクリスチャンが天に取り上げられる現象が実際に起きたら)があれば、それは、地上に残された多くのクリスチャンにとって『死刑判決』を言い渡されたようなものです。

今後7年半の期間が、地獄の底でさえも生ぬるいとおもえるほど、7年半が7億年に感じるほど時間が長く感じる

苦しみが強烈だから、当然、どんなにタフな人でも正気を保つことはできないのです!

あまりの激しい苦痛のために発狂するクリスチャンもいると思います。

もし、この世最後の世界の惨状を見ることができたら、あまりの恐ろしさで、発狂寸前になり、どんなに「頑固なほど他人に冷たい人」でも、温厚で優しい人になるのではないかと思います。

だから、呑気に「人生を楽しんだか」と神様はおっしゃらないと思います。

これらは仮にペンテコステ派が正しければの話であります。





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秋葉原無差別殺傷事件・加藤智大が、もしクリスチャンなら・・?

キリスト教では信仰をもつことによって、完全に神様から裁かれない。激しい憤りを感じるような残虐な犯罪行為でされも(無限の赦し)によって赦されると、伝統的プロテスタント教会では教えられています。(?)

仮に秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大が、犯行前にクリスチャンになったら、彼は神様から裁かれず、死刑になったら、そのまま天国に行けるのだろうかと疑問に思います。

逆に、加藤被告によって殺害された人は、たぶん大きな確率でノンクリスチャンですから、自動的に地獄に堕ちたと言う事になるのではないかと考えられます。(ノンクリスチャンの救いは別の機会で。)

殺されたほうが地獄に堕ちて、殺人をした人間が天国に行くとは、とても不条理だと思います。

個人的な考えですが、行動には動機が重要であり、「国が死刑という名目で自殺幇助してくれる」とか「死刑は国が行う殺人だから自殺にはならない」という自殺の正当化という動機もあります。

クリスチャンの自殺で有名なのが細川ガラシャであり、壮絶な最後を遂げたものがあります。
また、塩狩峠でも列車の最後部の連結器が外れて、乗客を助けるために飛び降りて自らを犠牲にしたとい話は有名です。

まとめると、
自殺を正当化するのと
自殺をしざるえない状況に置かれたのでは、動機が全然違うと思います。

神様は人間の心の底を読んでおられ、強烈な邪悪な邪念によって無差別殺人をすれば、信仰そのものが無効になるのではないかと思いますが、なかなか聖書には疑問に答える聖句がみつかりません。

たとえばルターの奴隷的意思論では、人間は自らの選択で善悪を判断するのではなく、神様によって、生まれつきの悪人と善人を作り、さらに、死後の世界で救われる人と滅ぶ人もきめられている。要するに自分で考えて行動して、自由意志で何かを選択しているようでも、実際は神様によって操られているという神学的な仮説(?)です。個人の自由意志は存在しないと言うことです。

それによると分岐時間論(無数のパラレルワールド)という物理学的な多次元論は、保守的キリスト教の教義とはかみ合わないのです。(分岐時間論とは、原子核のまわりにある電子は、一つだけど一つの場所には存在しない、無数の場所に存在しているという説です。電子一粒が無数の衝突跡があるという研究結果があります。その意味で個々人の自由意志で無限のパラレルワールドが発生すると考えられるのです。)

宇宙論を考えれば、宇宙は天地創造の時に作られ最後の審判で燃え尽きて終る。また歴史は、どんなに些細なことでも全て神様の計画になっており、個人が行う犯罪や不道徳も神様の計画のひとつと考えるほうが単純なのです。

伝統的キリスト教会に、もし改宗した加藤智広が、無差別殺傷事件で裁判員に「情状の酌量の余地一切なし。被告を死刑と処す。」という判決がでれば、加藤被告にとって自殺ではなく、国によって殺される。また、神様は無限の罪を購い赦してくれる御方だから、首に縄をかけられて落とされた瞬間に天国に行ける望みが達成できるわけです。


もしクリスチャンの加藤智大と同じ考えをもつクリスチャンがいれば、細川ガラシャと正反対の人格変貌を遂げ、温厚で優しい性格が、怒りやすく嫉妬深く、他人には冷たく自分以外の人間には無関心という人格になると思います。ようするにクリスチャンになることで、良い人になる必要はないと思えば、気が楽になる人もいると思います。

良い人になるには、自分の話した言葉や態度や行いをいちいち気にしなければならないです。だから、神様が無限の罪の赦しがあると確信したら、人を傷つけたのではないかと不安になる心理状態から解放されるです。

好きになれない人と無理して仲良くなろうと言う意欲がなくなると思います。

細川ガラシャや(塩狩峠の小説のモデルになった)長野政雄のような人格者になら無いで良いのです。

もし、細川ガラシャがルター派の宣教師によってキリスト教徒になったら、今まで通りの、とても怒りっぽい女性であり、自分勝手な性格によって、石田三成の人質になってでも生き残り、壮絶な死を迎えなかったと思います。

そこから歴史が大きく変わったと思います。

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非常に恐ろしい地獄に落ちるという脅迫という方法は正しいのか?

メアリーバクスターの著書では、たとえ善良なクリスチャンでも、完璧に正しい生活をしなければ非常に恐ろしい地獄に堕ちるという内容です。名指しで「福音派の信徒と牧師が地獄で永遠にもだえ苦しんでいる」という内容です。

ようするに聖霊の働きを認めない福音派クリスチャンを強く批判する内容です。
無宗教の一般人向けというよりも、ペンテコステ派以外のクリスチャン向けの内容になっており、他の教派のクリスチャンをペンテコステ派へ改宗させる為の書物だと思います。

たぶん既成のキリスト教会で不満(かなり強いフラストレーションを感じている)がある人には受ける内容だと思いますが、読んでみると信憑性が弱く、ほとんどが想像で描いたフィクションであり、それを事実としてとらえる人は、ほとんどいないと思います。

そんなに神様が厳格なお方なら、人類全体の罪を購うためにイエスキリスト様が十字架にかかる必要は無いのではないかと思います。


たしかに、教義的に「完璧に近いほど正しい生活をしないと地獄に落ちる」と教えられても、他人に冷たい人は冷たいし、自分に利害がない人には無関心だと思います。




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キリストの再降臨はいつくるのか?

あと10年後にでも再降臨があると主張する教派はペンテコステ派だと思います。

4・5年前に二軒ほどペンテコステ派のキリスト教会に通ったことがありますが、すごく堅苦しいことを言う割には、Aという大きな教派の教会の牧師は態度が冷たかったです。だから、若い女性の訪問者(?)が来ると、人が変わったように親切な態度をします。そのかわり牧師婦人がいろいろ話しを聴いてくれたのが、ある意味では救いだったと思います。
(ペンテコステ派ですが、キリストの再降臨が強調されていませんでした。むしろ戒律的なものが強調されていました。)

ただゴスペルソングが熱心なので、11月の土曜日にゴスペルコンサートの招待状が来て、それに参加しなかったら、ほとんどの教会員が何となく冷たい態度になり、話しかけても話しが続かないなどゴスペルコンサートに行かないだけで態度が冷たくなるのは、彼らにとってゴスペルはよほど大事なものだったと思うのです。

また、比較的に若い人が多くおり、青年会が充実しているみたいですが、年齢制限があり、30歳以下で正社員か大学生でないと、パーティに参加できないらしいです。

もう一軒のJという教派では、より堅苦しい感じの説教が多々あり、人間の性欲は悪だという説教が多々あり、徹底した戒律主義になっていると思いますし、また、そこの牧師先生が書いた本をもらいましたが、さしせまった再臨主義が書かれており、たとえクリスチャンでも他人に親切にしない神様の戒めを厳格に守らないと、再降臨前の大艱難時代でとことん苦しむようになると強く主張していました。その意味で、比較的に親切で教会に来てくれたことを歓迎する雰囲気がありました。

ただ、モルモン教に似た雰囲気があり生理的に受け付けないです。
(あとは礼拝中に意味不明なランダムな発音による祈りなども、異様な雰囲気がありました。)

モルモン教でも最も親切に対応する人たちは宣教師たちで、それはバプテスマ件数が少ないと叱責されるから、誰でも良いから、どんな理由があってもいいから、たとえ義理でも良いから洗礼を受けて欲しいと言うことです。

だからモルモン教の宣教師は、よほど酷い人ではない限り誰でも親切で優しいのです。

一人でも多くの人が洗礼を受ければとか、人に親切にしないと耐え難い災いが降り注ぐと言う発想がないと、より良い人になれないのではないかと思うのです。

人間は弱いものだから、自分が神様によって厳しいく裁かれていると言う感覚が無いと、自分に利害関係が無い人に無関心になり誰にも親切にする意欲がなくなるのではないかと思います。

宗教改革でルターが、新約聖書のヤコブの手紙を正典ではなく偽典(にせもの扱い)にしたのは、「行いがともわない信仰は意味が無い」ような文章があり、ルターの信仰義認「救いは完全に無料であるから、信じれば神様の無限の赦しがある」「クリスチャンになれば、(どんなに悪い行いをしても)罪を一切裁かない」という聖書の解釈と矛盾してしまうのです。

たしかにペンテコステ派J教団の牧師先生の本では、キリストの再臨前に7年半の大艱難時代が来て、完璧に近いほど正しい生活をしたクリスチャンとか、自分に一切利害関係がない人に親切をした人、隣人愛が強いクリスチャンのみが、天に取り上げられて、災いから守られ、ただ信じているだけのクリスチャンは、暴力とか飢え乾き、それ以外にもあらゆる人権侵害に苦しみ、自殺したくなるほどの激しい苦痛を耐えなければならず(サソリに刺されたような状態の苦しみに似ている。死を嘆願しても再臨まで絶対に死ねないという、ひじょうに恐ろしい罰をうける。)、ただ信じただけだと、生温かいクリスチャンを清めるために、自殺したくなるような激しい苦痛を受けるようになると書いていました。

キリスト教に限らず、戦前の日本でもお寺で紙芝居などで、悪い事をすると地獄で激しい苦痛を受けるという物語が語られており、戦前の日本では、近所付き合いでお互いに困ったことがあれば助け合う機運があったと思います。

結局、無神論主義や(霊や死後の存在を一切否定する)唯一物論が戦後の日本の公立学校で教えられており、悪い事をしたら地獄に落ちるという考えは、非科学的でありオカルトとみなされた結果、辛酸で取り返しがつかないほどのイジメ地獄へと変わってしまったと思います。

特に公立学校を支配していた日教組は、マルクス(スターリン極左)共産主義が主体ですから、徹底した唯一物論だから、あらゆる宗教の教えを封建的で不合理なものとして排除した結果、子供たちの残酷な側面だけが特出してしまい、弱いものイジメをしても教師がいじめっ子を叱れない、仮にいじめっ子を殴る行為をすれば、親から強いバッシングを受けて教師生命を絶たれるので、結果的にイジメが横行していまい、いじめ自殺が日常化となるわけです。

新自由主義に通じるものがあり、新自由主義は徹底した反共主義(貧困をなくすという考えは偽善であり、進化論は絶対的に科学的な論理だから、弱いものを駆逐させるのは正義という考え)があり、超格差社会こそ科学的国家論とみなすのです。

だから、超格差社会の行き着く先は国民の99.5パーセント以上が貨幣を持つことが犯罪とされ、それを使って買い物をすれば犯罪となる社会だと思います。富裕層には無限の富があるので、極論を言えばスペースシャトルを個人が所有して打ち上げることできるのです。

極限的な億万長者は、外国を買う(侵略して独裁者になる)こともできるのが新自由主義の最終目的だと思います。


話しがずれたけど、人間の弱さがあり、宗教は自由ですから、あまり厳しくしすぎると離れてしまう。

ちょっと優しい口調で、この世の終わりの話、死後の世界の話をすれば、想像するだけでも、ただ信じるだけでは、さまざまな災いを受けるという恐怖感がないと、自分勝手な生き方とすると思います。

たしかに、無理をする必要はないと思うし、無理を強いると、たとえ異端的キリスト教会でなくてもカルト宗教になる危険性があるので、絶妙なバランスが必要だと思います。

人が正しい生活させる切欠と、自分に利害関係が無い人にも親切に優しく接するように、仕向けるには、ちょっと軽く突っつく程度であれば良いと思いますあまり厳しい態度や、脅迫的な態度、何度もしつこく繰り返して同じ事を説教すれば、ストレスを感じてしまって離れてしまうと思います。

要するに人間は弱い存在ですから、ちょっと軽く言わないと、なかなか悔い改めをしないと思います。


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スピチュアリティの発達がキリスト教伝道を

現在、キリスト教では三大異端問題などに囚われてしまい、最近流行のスピチュアリティ(スピチュアル)に対して無関心ではないかと思います。それが日本のキリスト教伝道の特異点だと思います。

スピチュアリティに影響されたクリスチャンもたぶんいるかもしれません。
自分が通う保守的なキリスト教会ではほとんど無いと思えるが、他の教派、特にリベラルな教会のクリスチャンが、あまりにも寛容に何事も受け入れてしまいスピチュアリティやヒューマニズム、それにニューエイジ運動など教会内に潜伏させてしまうのです。

ある意味、パソコンに入ったウィルスみたいな存在であり、教会とは無関係なら問題ないが、キリスト教と融合すると異端化する危険性が多々あります。

近年、日本伝道が虚しいと言う米国の教会の意見が多々あり、ある意味では日本という国に無関心、まして日本文化(古典芸能からアニメまで)には無知であり、そのような人たちがいきなり日本に来ても、自分が思ったものと全然違う環境を見たら、強烈なカルチャーショックを受けると思います。

米国から最近のキリスト教会に何故か宣教師が送り込まれないのは円高だけではなく、日本文化に無知で無関心であることと、それを東欧やアフリカと同じやり方でやろうとするから実を結ばないのではないかと思うのです。

日本人の文化を理解しないと日本人の国民性が理解できず、特にキーワードになるのがオウム真理教の地下鉄サリン事件で、日本人が組織化を忌み嫌う民族になった事を米国人は知らないからです。

スピチュアリティは組織化していない宗教であり、ある意味では『(内村鑑三の)無教会』に近い精神世界・自己啓発活動だと思います。

「宗教」というものを忌み嫌う民族に、「しゅうきょう」的なキリスト教が日本に入り込むことは、とても難しいことだと思います。

ある説だと潜在的クリスチャン(隠れキリスタンみたいな人たちではなく)は日本には6パーセントあり、実質的クリスチャン人口の10倍は存在しているのは、インターネットの発達による個人礼拝だと思います。あくまでも個人礼拝なので宗教活動とは思えず、別の言い方すれば「キリスト教オタク」「キリスト教シンパ」だと思います。

h ttp://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/ownrighteousness.html

そのような人たちが、大なり小なりの組織に組み込むのが日本の伝道のあり方ではないかと思います。

人間関係がどうしてもダメだというなら、大きい教会のセルグループの活動だけ参加するのも良いのではないかと思います。

検索してどこが教会員数が多い教会なのか確認して、その教会でセルグループ(セル教会)を行っているのか調べて見るのも良いと思います。

20世紀の日本のキリスト教会では、近所の教会に行くのが当たり前でしたが、近年は教会まで30分から1時間も時間をかけて通うクリスチャンも多くなりました。

日本の主要都市の教会員が多いキリスト教会に通い、そのなかでセルグループを行っている教会に通うのがお勧めだと思います。

で、セルグループ(セル教会)とは、ひとつのキリスト教会内に「地域ごと」「世代ごと」などで幾つかのグループに別けて、月に一度くらいは活動する細分化された教会のことです。サークル活動のような感覚で気を使わずに通えるのが特徴だと思います。

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セルグループについて詳しい情報

別のグループのキリスト教界なので直接リンクできないのですが以下のURLを参考にしてください。

 h ttp://midori.church.jp/CellGroup1.htm




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復元イエスキリスト教会について

世田谷の成城に教会があるのが復元イエスキリスト教会です。

1998年2月1日に行ったことがあり、普通のプロテスタントの教会と全く同じです。礼拝が終わった後にコーヒーを飲み、例のインデペンデンス地方の大聖堂(神殿)の大きな写真がありました。

記憶によると日本人の牧師さんとお話しをしました。説教が英語と日本語で行われているのですが、自分が行ったときには、英語を母国語にする人が説教して、日本人の牧師が日本語に訳すと言う形です。礼拝に来る人の半分が日本人で半分がアメリカ人(白人)だったと思います。

復元イエスキリスト教会の歴史は元々はモルモン教のコピーみたいなものであり、教祖はジョセフスミス3世とジョセフ2世の妻エマスミスが始めた宗教団体で、北米を中心に信者が現在では約30万人もいる教団です。なお、近年では宗教団体名を変え「コミュニティクライスト(キリスト共同体)」となり、さらに復元教会の保守的な人々だけ数千人が「復元末日聖徒イエスキリスト教会」と名乗っているのです。

復元イエスキリスト教会は、リベラルな聖書解釈などがあり、個々人の信仰の自由を強調したため、モルモン色がなくなり、そのためジョセフスミスが書き上げた「モルモン経(モルモン書)」をほとんど使わなくなりました。

普通のプロテスタントというが、ある信者のサイトではブッタの教えも大事だというので、かなりリベラルになりすぎているのではないかと思います。それにあまり伝道活動をしないため(日本での伝道は1960年より)東京の成城と沖縄にしか支部教会がなく、日本国内の教会員もおよそ30人から50人しかいないようです。

モルモン教と大きく異なり、コーヒーやアルコールを飲んでも咎められない、什分の一献金の義務もない。

こんなに自由な宗教なら楽に続けられるので、そちらに入信すれば良いのではないかと考えますが、当時の自分としてはカルチャーショックを受けるほど、自由すぎるので距離も遠いのもあり、自分が通う教会として選ばなかったです。



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教会員生活とは

教会から離れる人は、自分が求めているものが得られない場合で離れるとか、長期に続く試練に負けてしまうなど、人によってそれぞれ違うと思います。

当然、教会から離れた人を不当に裁く権利はクリスチャンにはありません。

このブログは、メモ書き帳を一般公開形式であり極めて私的な内容ですから、社会的なことから、信仰まで統一したテーマがありません。

で、セカンドエディションというサイトに、信仰生活を中心としたブログも運営しています。

どこの教会なのか具体的にわかってしまうので、今のところはお伝えしなです。


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献金と経済状態のバランス

捧げ物(献金と奉仕)は、嫌々やるくらいなら初めからしないほうがマシです。
信仰とは喜びと平安が必要だと思います。多くのクリスチャンが、ネットを使い匿名で不満と誰にも言えない本音をぶちまける事が多々あります。

自分としてはmixiのクリスチャンコミュに入ると、多くの求道者を躓かせるような内容が多々あります。

実はクリスチャンコミュに入ると、ただ議論をすることにエネルギーを使ったり、また、ある人は、自分が所属している教会の不満をぶちまける人もいるのです。

同じクリスチャンでも、長文を読まされると時間がかかるし疲れる、意欲を失うので、Mixiの全てのキリスト教関係のコミュから抜けることにしました。

または社会的なもの政治的なコミュでも、頻繁に荒らしがあり、リタイアして今は休職中の人たちを、「社会のクズ」よばわりするので、それを無視しないで相手にするから、ある意味ではmixiは心が病んでいる人がたくさんいると思います。

で、本題に入りますが

収入の10パーセントを捧げるとは、働いただけの給料からの10パーセントを献金として支払うことです。個人的には職場からの収入だけではなく、精神障害者年金もあり、年金の10パーセントを支払うべきなのか不明です。

さらに、いままでの自分なら、モルモン的な発想があり、別のワードのイベントに出席にでることも自由であり、それによって知人を増やすことも可能でした。

では、『キリストの教会』では、クリスチャンキャンプとかYAキャンプなどは、都内からだと交通費が高額で、参加費などもあり、お金と体力に見合った祝福が無いという不安があるなら参加する必要はないと思います。参加費や交通費を自由献金に捧げるほうが賢いと思います。

モルモン的発想だと、信仰心を強化するよりも、たのしい思い出作りのためにしかならず、ある意味では、自己中心的な信仰生活だと思います。

その意味では、クリスチャンキャンプとかYAキャンプの参加は慎重に考えないとならないです。

クリスチャン生活で最も優先することは、自分が所属する教会への奉仕をすることです。

奉仕活動とは、表舞台にたち「礼拝の司会をする」とか「日曜礼拝の説教をする」または日曜学校の教師を行うとか、さらには外に出て社会奉仕活動をするのが奉仕と思われますが、地味な奉仕、極端な言い方すればゴミを拾うだけでも立派な奉仕だと思うのです。

いきなり社会で奉仕をしたいと思って、そのためにクリスチャンになる人もいましたが、なぜ、その人に対して誰もついてこないのか。それは、地道な奉仕と信頼関係の積み重ねがなければ誰も頭では良いことだと理解しても、信頼関係が積みかさらないとほとんどの人は、ついてこないと思うのです。いきなりでは社会的な奉仕活動はできないと思うのです。その人のことは見ていないようで実は鋭く見ている場合があるのです。

教会から一方的に「○○をしてください」と指名することはなく、奉仕をする機会を待つだけでは、いつまでも見学者や訪問者扱いにされる場合があります。さらに、目立つ形の奉仕とは、一番乗りの人が優先するので、結果的に言えば誰もしたがらない奉仕をするようになることもあるし、または、積極的になにをしたいかを伝道者や教会員に告げないと、いつまでたっても見学者みたいな感じになるのです。その意味で、自分が必要とされないと思ってキリスト教会から離れるのも、教会だけが悪いのではなく、その個人の自主性の不足から、疎外感を感じる場合が多々あると思います。

聖書の言葉でも小さいことに忠実なものは大きな事も任されると言われます。

だからクリスチャンも下積みと思える期間が必要だと思うのです。また、教会でリーダー的な存在にならなくても、小さい奉仕を頻繁に行い続けるなら、それが喜びになると思います。





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什分の一献金をする勇気があるだろうか!?

他のキリスト教会では什分の一献金(以下・十分の一献金)は普通に行われております。たいていのキリスト教会では個人の自由意志であり強制はしないということです。

有名な聖句では「マラキ書」に「神を試してみなさい」「恵みがくる」と書いています。

実は就職できたのは良いが、最近は正直な話、仕事が嫌になり辞めようかと考える事がたびたびあるのです。でも、良く考えれば、欠勤をしないためになるべく休みを多くするようにお願いしたのですが、最近は欠勤も多く、毎日が自分との戦いになるのです。

このような悩みがあるから、聖書を読むようになり頻繁に祈るようになった。その結果、神様を身近に感じるようになった。

以前は、「叱られることがすくなくなるように」と頻繁に祈ったら、その通りになり、一時的には改善されましたが、最近は、また仕事ができない人と組まされる。仕事の内容が大きく異なりはじめ、特に数字、暗算に弱いので、これがストレスになるのです。

教会のほうでも誠に言いにくいのですが、財政的に良くない状態であり、ある意味では危機的状態で経済的に余裕無いです。結果的には教会をより組織化させ、万が一、伝道者がいなくなっても、伝道者が社会で仕事するようになっても、教会を管理運営できるように教会員が結束力を強化しなければならないのです。

かつてはモルモン教信仰をしていたが、それが仮に10年で年収を平均で300万円なら、年間30万、10年で300万円という大金になるのです。将来的に永久にキリスト教信仰を続けられる自信があれば後悔はないが、万が一でもキリスト教信仰を失えば金銭的後悔をもう一度感じるということです。

どうやって十分の一献金を払うかはここでは書かないが、とにかく労働で得た収入の10パーセントを毎月献金すれば良いのです。

無駄な出費を抑え、金銭管理をきちんと行い、さらには自己中心的な欲望による信仰生活を慎む必要があると思います。

自己中心的な信仰生活とは、あまり意味の無い他の姉妹教会への集会の出席とか、自己満足による他教会のイベントの参加だと思います。そのような交通費があれば教会に献金すする方が自分の通っている教会のためになると考えられます。

クリスチャンの知り合いを増やしたいという気持ちがあるが、結局、これはモルモン信仰時代な発想で、自分の顔を広げても、本当の意味での友達ができなかった。むしろ、逆に嫌われたから、結果的にはモルモン教信仰を弱める事になった。(逆説に言えばキリスト教に当時から関心があったから、クリスチャンになる地盤を作った)

5月末のYAキャンプ参加は意味があるのか?ほんとうに楽しいもので友達が作れるなら良いが、それだけでなく、そんなお金があれば、自分が通う教会に献金にまわすべきなのかも知れません。

それを言えば、きりがなく、限りなく閉鎖的な状態と禁欲状態になるので、その辺を充分判断しなければならないと思います。


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死者のためのバプテスマは殉教者のための

モルモン教神殿では、死者のためのバプテスマの儀式がおこなわれております。これを行うには、架空の人間ではなくかつて、この世で生きていた人たちにさえ行うものです。

批判は別にして、
ではキリスト教会ではどう解釈するべきなのか議論があり結論はつかないし教派によって解釈が異なるが、

個人的な考えを述べると

ます、原始キリスト教会ではユダヤ教やローマ帝国からの迫害があり、雄雄しく福音を伝えた人たちが、牢獄に入れられ、残酷なやりかたで処刑されました。

その人たちの意思を尊重するため、殉教した人たちが伝えた福音を信じることを告白するために「死者のためのバプテスマ」を受けるのです。

聖書には、たしかに「殉教者のための」とは書かれていません。

死者とは、処刑された人だけではなく、不幸にも迫害者とは関係ない強盗に殺された人、旅の途中で事故死した人、病死した人も福音を誰かに伝えたかったと思います。

そのような死者たち、別の言い方すれば「聖徒」たちの願いに報いるために、バプテスマを受けるのです。

原始キリスト教会の時代は、想像を絶するほど厳しい状態であり、時代が進むに従い、大部分の人たちが信仰を捨ててしまいました。クリスチャンに対する弾圧が、ますます非人間的になったからです。

おそろしくて信仰を捨てた人も大部分いたが、中には勇気ある人たちが、現在のキリスト教をもとにしたと思います。



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もしモルモン教が正しくても好きなように生きても良い

そもそもモルモン教とキリスト教の大きな違いは、昇栄という、無数の神々の一人になることです。ここがキリスト教とは教義的に大きな違いです。

全知全能の神になって、被造物をつくり、それらに崇拝されても、あまり嬉しくないです。

その点、キリスト教では必ず天国と地獄という最後の裁きの教義ががあり、悪徳に従った人とか自分に利害が無い人に冷たい人などは、地獄に落ちる。さらに最も厳しい裁きを受けるのは、キリスト教を棄教する人たちです。

これが正しいかどうか解りませんが、クリスチャンでもそれぞれ復活の栄光の輝きが人によって違うのは、

ある人は信じるだけの、なんちゃってクリスチャンになりあまり教会に通わないで正しい生活をしない人は、やっと救われた、ほとんど輝きが無い救いであり、

また正しい生活をした人には、眩しいほどの輝かしいような栄光に満ちたが復活があるのです。

誤解されると思われるが、天国にも階級があり、それは永遠に変えられないのです。

なお、自殺はそれぞれの意見があるが、かつては自殺は棄教あつかいされ、キリストを裏切る行為とみなし、聖霊に逆らう罪なので死んだら永遠に許されないと言われたが、最近の精神科の進歩により、自殺の大部分は鬱病という病気であり、ある意味では冷静な判断ができないため、ある場合によっては自殺も罪に問われないと言う考えになっています。でも、クリスチャンの自殺は周囲に強いショックを与え、ある人はそれを切欠に棄教する可能性があるのです。

棄教行為に関しても本人が悪いだけではなく教会が異常なら、それで罪に問われる事は無いと思います。


以上は自分の考えですが、その根拠は神様の愛は無限であり、神様を信頼するからこそ慈悲深いお方だと思うからです。

仮にモルモン教が正しい宗教だとしても、熱狂的に信仰しても、神々になれる人は、ほんの一部の意識が強靭な人たちだけであり、また、経済的に多くの恵みが無ければ、モルモン教の厳しい律法を厳格に守る事はとても困難です。

神になるために無理をする。そのために自分を責めてしまい、精神に異常を来たしてしまう人がいたことも事実です!

本当に永遠の地獄の苦痛を受ける人は、人類史上、わずか五本指に収まるだけで、既に一人はイスカリオテのユダと、人類初の殺人者カインだけです。もしかしたら再臨の前に、もう一人の人(モルモン教の幹部)が滅びの子になるというかなり深刻な予言もあり、さらに、福千年(千年王国)の後にサタンが開放されたときに、ゴクとマゴクの人類最後の最後の戦争のときに、一人滅びの子が出てくるのです。

五本指以内に収まる人が滅びの子となるわけです。

なお、モルモン教では煉獄(霊体の牢獄”ひとや”)という教義を信じており、死後の世界でもモルモンなる人がいれば、煉獄から開放されパラダイスに行けるのです。

最後の裁きのとき、人類の大部分が星の光栄の王国に入るが、実は「星の光栄の王国」とは、その人が最も幸福な生活ができる世界なのです。

あまりにも素晴らしい世界なので、それを見たら、何もモルモン教に通って無理して厳格な律法を守る必要は無いということです。

また、一部の活発モルモンが安易に、その棄教者のことを「滅びの子」と宣告する人もいますが何の権威によって、宣告するのでしょうか?

モルモン教では家庭の素晴らしさを宣伝するが、その実態は夫婦喧嘩が耐えない、子供もそれをみてモルモン信仰を継続する意欲を失い、自分の好きな道に進みたくなるのです。

熱心なモルモン信者の夫婦の離婚も多いのです。


そもそも、家庭で成功するモルモンは、少数派だと思います。

結論を言えば、無理をしない。自分を責めない事が重要なのです。

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モルモン教に無関心な牧師たち

前回の日記でも「お互いが疲れたものを伝道する」という内容の日記を書き込みましたが、クリスチャン生活をして教会に行くのが辛い、疲れたという人も多々いると思います。

その反対にモルモン教の生活が律法主義的で疲れる。教会の責任が重くって辛い。日曜日には早く帰れないとか、そのように疲れている人も多々いるかもしれません。

それにモルモンの認知度が低いため一般社会の人はモルモン教の律法を知らず、かならず何らかの摩擦する。そのため妥協するのが苦痛と言う人もいます。また理解ない人からは変な目で見られるなどあります。

まずなぜ結婚できないのか?親たちがハードルをあまりにも高く設定させてしまったからです。披露宴だけでも一年間はぜいたくさえしなければ食べるものには不自由しないほどの生活費が僅か一日で浪費させるのです。無数の時代錯誤と思える不経済なしきたりの数々。そのうえ心に多くの傷を与え、自分の値打ちを安くさせ自己憐憫化させる「婚活」。

賢い人は上記のことを予測し、あえて婚活をしないです。

むしろ独身をポジティブにとらえること。ますます悪化する経済状態に時代錯誤と思える浪費(披露宴と結納金)。リストラや倒産時のための貯蓄を食いつぶすから、あえて結婚しない。

結婚しても子ども達の教育費が膨大な金額。

これでは、とても人生をたのしめるわけはなく、ある意味では虚しささえ感じます。

あらゆる苦痛を耐え忍ぶことだけになると、モルモン教から離れる人たちが多いと思います。

まず、モルモン教の神殿結婚なければ「昇栄」という完全な救いはなく、独身だと、どんなに頑張っても、月の光栄の王国に復活する(解りやすく言えば、「天国と地獄の中間」の世界。煉獄でもない)。

月の光栄の王国なら、別にお酒を飲んでも、周囲の人に親切にして自分に利害が無い人に優しい態度をして、この世で言う『良い人』なら、どの宗教でも月の光栄の王国に入れるのです。だから、極論を言えば、仮にモルモン教が正しいとしたら、モルモン教のバプテスマを受ける必要もなく正しい生活さえすれば、死後の地獄から逃れられるのです。

ますます、この世的に賢くなればなるほど、なんちゃってモルモンになるのではないかと思います。

まして周囲のプレッシャーで好きでもない人とお付き合いして結婚してもたのしくないです。

で、本題に入るが、モルモン教に無関心でかなり誤解している牧師や聖職者が多いのも事実だと思います。

モルモン教に適応できるクリスチャンもいることはいるが、キリスト教からモルモンへ改宗するのは、モルモン教の奥義を知らないからです。

これは、モルモン教の信仰生活経験があったクリスチャンからモルモン教の『核心』を教えてもらわないと、興味本位からモルモン教の宣教師と仲良くなってモルモンに改宗してしまう場合があるのです。

キリスト教会内ではモルモン教のことを語る機会がほとんどなく、まして自分もそのことをあえて語らないほうが良い、必要ではないときは「それは神様の御心ではない」と考えて自主的に語りません。クリスチャンの場合はキリスト教の教義を学ぶ=聖書を学ぶことが重点を置かれているので、他宗教を学ぶ余裕が無いからです。

そこで、クリスチャン生活に疲れた人とか、ある人は興味本位でモルモン教会に言って見れば、「ミイラ取りがミイラになる」ように、モルモンに改宗する危険性があります。

モルモン教とは表面的には普通のクリスチャンの礼拝と同じことをするし、この世の人から見れば、酷似しているので見分けつかないが、

究極の違いは、神殿礼拝があることです。

これは、たとえモルモン教信仰を捨てても礼拝の内容を漏らすのが恐ろしいと思うものですから、それを言えないです。

ある意味ではモルモン教神殿は、とても霊的な場所であり、人間だけがいるのではなく、霊的な存在を実感できる場所です!その意味では、深みにハマると抜け出すのは困難になる場合もあります。

どこのキリスト教会にもない独自の礼拝儀式があることを良く考えないで入信する人もが多々います。その意味では、なぜモルモン教が求道生活がキリスト教よりも極端に短い、バプテスマを性急にさせるのかは、急かすことで冷静な判断を失わせるからです。

その意味では、日本のモルモンの大部分がモルモン教会に通っていない。極端な場合は、自分はモルモン教の信者にさせられたことに気づかない人も多いと思います。

自分もモルモンを辞めたいと思って辞めるまでには6年くらいかかりました。
神殿という深みにハマると、かなり辛くても抜けるまで、時間がかかるのです。

なお、棄教する場合は「退会」ではなく「教会員記録抹消」というのです。

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ペンテコステ派には

現世ご利益的にペンテコステ派に関心をもったのが2004年であり、その当時は残業が多すぎる状態で、少しでも恵みが在るように願ったが、結果的には自分には合わないと思いました。

ひとつは再臨主義と過度の宣教活動があり、教会員を増やす事だけに熱心であり、何か違うと感じました。

同時に二ヶ所のペンテコステ派教会の夕方礼拝に通ったが、どちらも共通しているのは、全力をかたむけた献身と奉仕が強調されおり、あまり恵みに関しては語られず、また、思っている以上に厳しい律法主義に陥っている事です。

一つはアメリカ系のA教団、もうひとつは韓国系の有名な教団。

一時的にそちらの教団の教会に通ったが、むしろ恵みが失われ、落ちるかのように環境が悪化して、会社を退職をすることになりましたが、そもそも、会社を辞めるのが遅すぎたのです。

まず自分に合わない常に悪化の一途をたどってると思ったら、早めに辞める決断力が必要だと思います。

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ネットのモルモン擁護・反モルモンをバカにするのは活発モルモンではない!

10年以上前のモルモン教の実体と現在のモルモンでは、世帯交代などもあり、過去の事を述べるのはナンセンスであり、まして、当時活発だった人が今でも活発だとは限らないからです。

一言言わせてもらえば、従順はたいていは良い意味に捉えられるが、十数年前の活発モルモンは思考がひねくれており、従順=自我が確立していない「自立していない」「親のすねかじり」「マザコン」というように評価され、その意味では従順で、まさかモルモン教の信仰を捨てるとは思われない自分が、なぜモルモン教信仰を捨てたのかは、周囲の人の悪い意味での評価。それも80年代後半から90年代の歴代の監督でさえも、否定的に捉えたため、最も締め出すためには、奉仕の機会を与えない。また、会話の輪に入れないで浮いた感じにさせる、有志の娯楽的な活動を一切誘わない教えない。教えなくても良いから、それなら、最後まで自分が知らないようにしてくれて欲しい。孤独感を強調させたことです。

従順な故にそれが自我がない自立できないとねじれた評価をされて、そのまま数年、1990年あたりから1998年2月まで自分の気持ちの中に「モルモン教会に行きたいない」「モルモン教に行くとより孤独感を感じる」「教団の人が皆、自分のことを見下している」「モルモン教にとっては元気ない自分は敵対行為とみなす」など、

従順になればなるほど、捻じれ現象による歪が激しくなり、それが精神的ダメージ、そして、後もう少しでモルモン教の女性と結婚と言うところで、親の反対があり、モルモン教のカミに裏切られたような気持ちになり、何かが間違えていると確信しました。

前置きが長くなりましたが、
あえて結婚をしたがらない若者も多い。その反面いざというときは三ヶ月以内で確実に結婚できる自信があるから「結婚できないのではなく結婚しないだけ」で、本音を言えば、家庭不和の連鎖をこれ以上作りたくない、自分たちの世代で時代錯誤の家族主義を葬るには一生独身が言いということです。

そのような考えのモルモンの人もいえれば、反モルモンが消滅した現在、いまだにねちこく反モルモンを批判する、自称活発モルモンとは、仮想上モルモンであり現実ではお休み教会員であり、モルモン教の教義を反モルモンほど理解できていないでお休みしただけなのです。

反モルモンは一種の負け犬であり、ある意味では弱者であり、それを叩く事で、自分が彼らよりはマシな人間だと認識して優越感に浸れるのです。

活発モルモンの場合は、そんな事をする暇は無いと思うのです。

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身体よりも脳の劣化に気おつけよう。 

日本人の平均寿命は現在80歳ですが、実は健康寿命はこれよりも20歳低いはずです。

長く生きることが幸福ではなく、たとえ60歳代の寿命でも最後まで健康に生きることが重要なんです。

脳が老化すると、どうでも良いことに拘りを持つ場合があり、そのために町内会や自治会などの話し合いで、重要な話しが後回しにさせられる。協調性を失い孤独になる危険性があるのです。

記憶力の低下だけではなく、論理的思考力の低下があるために、どうでもよいことへの頑固なこだわりがあり、そのために、話し合いにならなくなるのです。

たとえば、自分が自治会をしていたとき、会議で話し合いをするときに、団地建て替え問題の会議に自分もでることになった。それは自分が出席できてもできなくても良いから副会長の責任だからと言っても、頭が堅い老人だと、それが気に入らないということになるのです。

「老人」ということばは、考える人と書きます。

若いときから論理的な思考ができなくなると、細かいことへの拘りを持ち相手の言い分が理解できない。そのために、次第に信頼を失い敬遠される危険性があるので、まずは、年下のひとたちに信頼をおき、いざというときに相談役になれば良いと思います。

そもそも過去の高齢者は、人生経験と知識が豊富であり、若い人から尊敬されていたが、現在は認知症とか精神障害から、頑固で融通がきかないから邪魔者扱いされる場合が多々あるのです。

まず、自分も反省しなければならないのは物事を単純に捉えていないだろうか?ステレオタイプと思える思考(全部を人括りに捕らえて考える。個性と立場いう概念がない。)になっていないだろうか。

たとえば、現代の若者は軟弱ものというが、ステレオタイプで全部の若者をそのようにみていたら確実に痛い目にあいます。

ほんとうに優しく人畜無害な若者もいえれば、凶暴性を持った若者もいるわけですし、まして、最近は若い人にアニメが流行っているから、だから若いから全員がアニメに詳しいわけでは無いのです。中にはアニメに無関心な人もいるはずです。

脳の老化の始まりは、ものごとをステレオタイプで観ることです。

次には相手の意見を聴く耳をもつことです。
自分が絶対正しいと思っても、他の人の立場や環境、感じ方もあるので、自分とは違う意見があるはずです。それが間違えている好ましくないものかもしれないが、なぜそのような意見がくるのか、相手の主張を理解しようと努力する事です。

老化すると理解力も衰えてくる場合があり、相手の意見を聞き届けられない場合があります。

思考力だけではなく、理解力の低下もありうるのです。

でも同じ70歳代でも、パソコンやデジカメなどに拒否する人と、それを上手に使いこなす人がいます。

真に失礼な意見だと思いますが、前者のほうが認知症になる確率が高いと自分は考えます。

人間の脳細胞は意外と小さいもので、加齢ともに縮小するので、知能が低下する場合が考えられるので、脳が十二分機能するためには、若いときから「論理的に思考する」習慣をもつことです。

どこに矛盾がないか確かめながら考える習慣です。

または自分の考えている事を書き込んでみることです。

なぜ新しいテクノロジーに拒絶反応を持ったり、持論を頑固に固執するのか?自分でよく吟味するべきだと思います。

このことについては、長くなるので、また別の機会にでもつづきを書きたいと思います。

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タイ・カンボジアへのボランティア

海外へのボランティア活動が3月頃に各地の教会合同で行います。参加する人たちは20代の青年達です。

本来なら、もう一つのブログに載せるべきなのですが、自分が参加できないし、それに参加するにはかなりお金がかかるようです。だから正確な情報が載せられないので、ここに述べる事にしました。

往復の旅費と滞在費などです。

ネットでグダグダ言う暇があるなら、お金をためて海外を見ること!それで、人生において大きな変化を受けると思います。

ネットだけだと、特に最近は全世界の航空写真も見られる、あらゆる情報が自分の部屋でわかるから、それだけで自分が全世界の事をあたかも知ったような振りをしているが実はウの中のカワズだと思い知らされるのです。

タイとカンボジアへのボランティア旅行(?)で、現地の人たちの交流を通して、異文化とふれあい、それによって人格的にも大きな影響を受ける事ができます。

基礎的にはキリスト教布教となりますが、それだけではなく、現地の人たちと触れ合う事で、人間らしさとは何だろうか言葉では表現できない何かを感じ取る事ができます。

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お互いに疲れたものを伝道する

もし自分がモルモンの伝道部長なら、信仰生活に疲れたクリスチャンをターゲットにします。意外と牧師が簡単にモルモン教に改宗しやすいのは、熱い信仰を持てばもつほど、躓いた時の反動が大きいからです。

その時、果たして自分が選んだ道が正しかっただろうか・・・?と疑問に思うときは熱心なクリスチャンほど多いのです。

自分が危惧するのはキリスト教会では、ユダヤ教以外の宗教に無知であること。聖書を熱心に勉強している人ほど、他宗教の常識的なことに無知なのです。

少なくとも単純な概要だけでも知るべきだと思います。

この世の人は、神様とか罪など信仰をもつものでは当たり前の概念が理解できない。それから説明してから改宗させるまで時間がかかる。その間にボロがでて改宗に至らないが、クリスチャンだと共通部分があり、聖書なども使っているのです。

特にモルモン教に関しては、キリスト教会では無知さを実感するので、何人かのクリスチャンが、きれいな身なりの若い男性宣教師にひかれて、モルモン教の教義のレッスンに参加するのではないかと懸念するのです。

信仰はあくまでも自己責任ですから、また、信仰の自由があるので、クリスチャンからモルモンへ改宗する人には、何も説得できないのが現状なのです。

いまのところモルモン教に改宗したクリスチャンがいることを、あまり聴いた事が無いです。

まずモルモン教でも信仰生活に疲れた人しかキリスト教へ改宗させる事はできないのです。わざわざ幸せな生活をしている人、モルモン教が唯一真実だと信じている人に、モルモン教は間違えていると言えば、反発を買われるし、それを言うものは不信感をもたれるからです。

自分の場合は、数年間の過剰な人間関係のストレス。異常なまでの人格的未熟な人間が多いこと。それがモルモン教の顔になっているから、まじめにモルモン教を信仰するのがバカらしく感じたのです。

ではクリスチャンの信仰は、適当で言いのだろうか?否、本音言うと二度バカを見るのは嫌だという気持ちがあるが、キリスト教はあくまでもシンプルな宗教であり、ただ、キリストを信じて生活するだけで良いのです。

教会生活とか人間関係などは、二の次であり、大切なのは神様との関係だと思います。でも、理想論に思えるが、それが目標であり、とにかく信仰とは(モルモン教のように過度に)組織化されるべきものではない。組織化されたほうが良い場合があるが、本質的にはキリスト教は組織は教会以外は必要無いのです。

繰り返すが、モルモン教の伝道部長なら、ひとつはある程度聖書の知識がある人間を勧誘すること。そのほうがレッスンが順調に進みやすいからです。

信仰生活に疲れた人を狙うことです。

まず、信仰生活に疲れないのは他の教会員の目を気にしないマイペースな気持ちが重要であり、けっして無理をしないことです。

無理して、いろんな集会をでて疲れたら、自分の気持ちに迷いがでてくるのです。

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十分の一献金・モルモン教の義務

什分の一献金(以下・十分の一)は教会運営のために使われます。モルモン教では本部ビルが高層建築であり、いかにもお金がたくさんある教団だと思わせます。

たしかに他のキリスト教会でも、十分の一献金を行っている教派や教団などでは、牧師への給料を支払う事ができるのです。それをおこなっていないキリスト教会では、牧師が平日に社会に出て何等かの仕事・職業をしながら説教の準備をします。

モルモン教では十分の一献金は義務であり、それを行わなかったら、教会員としての地位が脅かされるのです。

実は十分の一献金ではさまざまな弊害があり、

ひとつは

モルモン教内で兄弟姉妹という仲間意識を利用したネズミ講が流行りだす。それは時代と共に形や目的を変えながら浸透していくのです。

高価なタッパーの販売(内部の空気圧が少なくなるから食料の保存に有利)から、鍋の販売など、多くのものを買い込みそれを他のモルモン教教会員に販売させやすいのです。で、義理で高価なものを買わされたり、または、自らが儲けるためにディラーになることで、多額の負債を受けてしまい破産してしまうのです。

ローカルにおいては、そのような弊害が多々あるのです。
それなら十分の一を払わないで、堅実な生活を送るべきだと思います。

そもそも、クレジットカードの所有は金銭を借りる可能性があるのでダメだと思います。買い物には便利で現金を持ち歩かないで済むのですが、個人的には全てはローンを組まないでモノを所有する。だから、自動車購入や海外旅行なども貯金を積み立てしてから買うべきだと思います。

上記のことはモルモン教でも借金を一切しないことないことが教団無いで教えられており、例外は家を買うときと、事業を始める時だけです。

モルモン教では当然、ギャンブルも禁じているので、パチンコ・競輪・競馬の公共ギャンブルから株の取引までしない、投資を一切しないように警告しているのです。

現在、非正規社員の増加から、収入の激減りに陥り、十分の一献金を払うのが困難な教会員増え、上記の事を守らない信者がいてもおかしくないと思います。

だから生活に困らないように、モルモン教の福祉制度があるのです。物品で支払うとか、教会堂の清掃などの労働などで、時給として現金を支払う制度があるのです。そのような立派な制度がありながら、教会員側では貪欲とか見栄、教会側では頑迷なほどに十分の一献金を支払わない教会員に制限を与えるのは、結果的には、ネズミ講とか株の投資などを行うことになると思います。

キリスト教会では、詳しいことは書けないが、柔軟な献金制度があり、あくまでも個人が決めた金額を支払うことなのです。

ようするに働いたお金の10パーセントを神様への感謝として捧げることは大事だと思います。

十分の一献金だと、もし万が一自分が信仰を失った時、その数年間、または数十年間の金額が積み立てると、数百万円になるので、モルモン教など安易に入信する人は、思考が停止していると思うのは、もし、将来挫折するとしたら大きな後悔の念に駆られるからです。十分の一献金は法律的には『贈り物』として捉えられ、信仰を失ったから帰してくださいといっても、与えた物を返す権利は受け取ったほうには返す義務は無いからです。

たとえば年収300万円なら、年30万円、それに数年の時間を掛けると、10年なら300万円という高価な金額になります。

もし、モルモン教を入信を考えるなら、一生涯モルモン教を辞めない自信がある人なら、十分の一献金を払っても構わないと思います。そのかわり貪欲や見栄から上記のネズミ講とか株の投資などしないよう十分注意するべきです。ローンも極力組まない、できればクレジットカードを一生涯使わない事をお勧めします。

献金の金額も、クリスチャンになると、習慣化して、あまり記録をしない管理を怠りがちですが、自分がどれだけの金額を神様に捧げたのか自己管理をするべきだと思います。

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東京キリストの教会の責めの実態とは

基本的には徒弟制度というものを使うと、かならず支配される側の精神に異常をきたすものです。

「あそび」がない、個人の趣味趣向を他人にコントロールされることです。東京教会側では、クリスチャンとしての基礎的道徳の徹底とみなし、相応しくない漫画やビデオなどは全て禁じられるのです。

人間の精神の安定とは、「あそび」があるから正常に機能するのです。

地球で言えば月みたいなもので、もし月がなければ、北極と南極がゆっくりと赤道へ行ったりします。もし地球の周りに月と言う衛星がなければ、そこに人類を住まわせたら、暦が作れない状態で文明など存在しないです。生存はできても文化や文明は暦という基礎がなければ、そこから農耕もありえないので、人類の歴史は初めから終わりまで、狩猟だけです。

たとえば中東のオリエントにすんだとすると、地球が目茶目茶な自転をすると、季節の期間が短くなったり長くなったりする。

今年は、熱帯で来年はツンドラ、冷帯であることです。夏がない年もあったり冬がない年がないので、暦を作ることができないのです。そうなると農業などは生まれないのです。文化や文明も永久に発生しないのです。

精神を安定させるために「あそび」「プライベート」という部分を作り、強引に罪を告白をさせるなどさせない。東京キリストの教会が失敗したのは、初めから「情け容赦ない責め」すなわち「個人の秘密の保持」「プライベートな趣味を剥奪」という軍隊や修道院みたいな状態を行ったことです。世俗的な状態とのギャップが激しいほど崩壊の酷さも比例します。

では、東京キリストの教会・ボストン派は無楽器派といつかは融合するだろうか?

旧・代々木八幡キリストの教会の建物をのっとらなければ、意外と簡単に融合できたと思うが、過去の確執みたいなものがあり、「乗っ取られた」「奪われた」というものがあって、東京教会との連携をとるのは、現状では難しいことだと思います。

ひとつは、東京教会が他教派の牧師とか教会との連携を積極的に取ること。

完璧に過去の「情け容赦ない責め」と思える「徒弟制度」のようなものが無いことが必要です。そこから過去の確執を徐々に取り除ける必要があると思います。そうなれば、将来的に融合は簡単にいくと思います。

モルモン教でも自己申告で、罪の告白があり、それをしないと地獄に落ちると脅すローカルな指導者がいるから、克服できない罪、喫煙癖などが良い例であり、被害者側に言うと失礼ですが、融通が利かない教会員の場合、事細かに監督に罪を告白するので、または、モルモン教の道徳基準とかドレスコードなどがあり、現に他者による管理社会を嫌う若者が増えているので、わざわざ、自己申告したり、戒めを守る若い信者は、ほとんどいないと思います。

むしろ、真面目な人ほどモルモン教に嫌われるのは、その人に自我がない。自分の主張を男らしく雄雄しく言えない奴は嫌いだということです。嫌なものは嫌だといえない奴は消えてしまえというが、現実は自己主張が強い人ほど、反モルモンになり、お互いに強く自己主張してしまったから、日本の反モルモンは空中分解してしまったと思います。

これは人生における基礎の基礎ですが

嫌なものは嫌だと、できないものは「できない」とはっきり言えないと自分を責めたり、被害者意識を持ち続けると思います。カルトの被害者も100パーセント教会にあるわけではなく、自己主張をする勇気がない人が、監督などに支配されいろいろと責められたり不愉快な思いをするのではないかと思います。

だから反モルモンになる人は、二つの両極のタイプがおり、[NO」と言えない人と、誰がなんと言っても持論を曲げない自我が強い人間の二つがあり、結果的には、現代の切れる若者も増えているため自己の欲望を型にはめる、または、誰かに従属する信仰生活をする人は、ほんとうに稀だと思います。

東京教会が失敗したのは、教会員を雁字搦めに管理したり、言動を監視した結果だと思います。

常識ですが、自分は変えられるが他人はどんなことをしても変わらないという鉄則を忘れると、月を失った地球のように滅茶苦茶な自転をするので、そこから文化は何も存在しないように、何一つ進歩をしないのです。

簡単に言えば秋葉原無差別殺傷事件の被告の母親みたいに、親が過剰に子供を管理しすぎると、どこかで爆発して崩壊するのと同じです。だから、「あそび」は必要なのです。

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ボストン運動が沈静化したのは情け容赦ない責め

もしモルモン教も初めから信者への情け容赦ない責めをしていたら、いまではモルモン教の名前を知らない人がほとんどで、たぶん「キリストの教会の歴史」に、信仰復帰運動から出た、無学な若者を教祖にしたてた別宗教として歴史に名前が残っただけで、その残党が、「復元イエスキリスト教会」という名前で現在では、穏健的な教会だけが残っていたと思います。

1830年代に燃え出した火がくすぶったので、全米から北米へ南北アメリカ大陸や太平洋とアジアの一部に広がったのです。

ボストン運動が沈静化して、今後、「キリストの教会」と名乗りながら、単独でボストン派として穏健的な教会へと変わる可能性があると思います。そのように期待したいです。

ボストン運動とは、教会員に対する情け容赦ない責めの連続、真性サディストが性的快感を求めるために、いじめられることで快感を感じる人ではなく、むしろそのような性癖がない人をいじめることで性的快感を感じると、お腹を殴る、鞭で叩くなど、挙句の果てには、監禁されるのです。

ボストンとモルモンの大きな違いは、モルモンは楽しいとか連帯感という甘い飴や快感をあたえるが、ボストンは一切飴を与えないために、20年もしないで崩壊してしまいました。

たかが20年といっても、数百人の人がキリストを嫌い神様をもう信じないという、その人の人生から、信仰をもつ機会を永久に奪ったわけです。

もっと解りやすく言えば、ボストン運動は、ドメスティックバイオレンスみたいなものだと思えば良いです。これでは、マゾヒストな女性でも逃げ出します。

もともとモルモン教には厳格な戒律はなかったのです。

モルモン教会歴史では、初期はジョセフスミスは喫煙しておりお酒を飲んでいましたので、これは普通のモルモン教信者でも知っています。後ほど、身体のために禁酒をしたほうが良いのではないかというニュアンスがありました。だから、紅茶とかも飲んでいたが、

西へ逃げソルトレークに到着した時点で、ブリガムヤングが禁酒禁煙とコーヒーを飲んではいけないというようになりました。

徐々に責めを激しくしたので、それで火の手がくすぶりだして、それが一気に燃え広がったのです。

モルモン教は、普段は厳しくても、どこかに飴を与えるなら

ボストン運動とは、真性サディストな男性とのドメスティックバイオレンスの恋愛なのです。

献身的な信仰の強要、徒弟制度の確立で、私生活まで他の人に管理されたら、それは嫌になると思います。

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なぜ、このブログは「普通の人たち」なの?

アニメ「絶対可憐チルドレン」に反エスパー団体の名前が「フツーの人々」というテロ組織です。

モルモン教がテロには走らないです。社会に不満があってもテロに走れないのは、一枚岩といえるほど意外と結束力がないですが、

「絶対可憐」の原作でも、フツーの人々の過激派が「ブラックゴースト」という完璧な悪の化身となった、より危険な無差別破壊と営利追求のテロ組織があり、

ちょうどモルモン教でも、フツーのモルモンと、過激なモルモンが一部いるわけです。

モルモン教原理主義者だと白人至上主義者で、日本人は近づけないのは、彼らは髭をはやし、いつも機関銃を持ち歩き防弾チョッキで身を守り、数名の女性といつも一緒に歩き回る武装した一夫多妻主義者で人種差別主義者だから、日本人などは人間だと思わないから簡単に殺されるのです。

「フツーの人々」=ユタ州本部のモルモン教と

「ブラックゴースト」=ユタ州周辺にいる武装した一夫多妻制主義者で、大型ジープを乗り回したいるのです。

日本のモルモン教原理主義者は別の形、アメリカにもないほどの厳格なローカルルールを作り続けてしまう『スポコン』型の教会指導者が、チョコレートを食べては駄目、日曜日はテレビを見てはいけないなど、アメリカのモルモンに無い厳格な戒律を作りそれを守るようにさせるのですが・・。

でも、個人的な想像ですが、21世紀の現在、普通のモルモン教の戒めでさえ、若い人には守ることは無理だと思います。

英語で「正常」というのがカナ表記では「ノーマル」ですが、英語を聞くと「モルモン」と聞き取れるのです。だから英語では「モルモン」と「正常」「普通」という言葉の発音が良く似ていると思います。

たとえば「ライス」といえば「米」にあれば「しらみ」という意味にもなるのです。

日本語の同音意義ではなく英語の発音のおくの深さ、英語の発音母音と子音全部で100あるのですから似ているものも多々あるのです。

そもそもモルモン教にはかなり穏健になりキリスト教化した宗派もあれば、あくまでも一夫多妻制を厳格に守る過激な原理主義教団もあり、その真ん中に主流派ユタ州モルモン教があるわけです。

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21世紀の日本が貧しい豊かに関係なく

モルモン教は日本人の国民性には向かないと思うのは

今も若い人はキレる、自制心が足りないため、厳格な戒律を守ることは不可能であります。

結婚したくてもでいない男女があまりのも多く、それは前世紀のモルモン教会内でも多くみられ、かといって、結婚して逆に不幸になったということが多々あるのです。

成長とはなんだろうか?実は具体的な概念が不明です。

人格的なものと、教会への貢献だけだろうか?

とにかく、「私が怠けても教会は存続する」という考えは自分の居場所を破壊することになるのは常識的です。

人格的な成長とはなんだろうか?キリストに近い人格であると思います。

そうなれば、たとえ嫌いな人でも悪意で対応することもないと思います。

逆に完璧を求めることはモルモン教みたいになるので、どこか欠点や不完全なところがあっても、それは発展途上であり、一瞬で完璧になることは絶対に不可能なのです。

完璧を求めるためにモルモン教の日本版原理主義者(一夫多妻制をしない戒律至上主義者)のようになれば、それはカルトなのです。

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クリスチャンがモルモンを異端する資格があるだろうか?

個人的に大部分のクリスチャンは、まことに残念ながらクリスチャンと言いながら、実は進化論を信じる牧師、その牧師の教会の教会員の人たちなど、進化論を信じていない。創世記の記述は全て古代の神話であり、事実ではないというので、それで、キリスト教でも「福音派」と「伝統的キリスト教=正統派」という線引きをしているのです。

たしかに「福音派」にも千差万別であり、

イラク攻撃支援と支持を教会が行うアメリカの教会が多々あり、教会が共和党政府の支援団体へとなり、自分の息子を強引にも軍隊に入隊させる親もいると思います。

自分が知っているアメリカ人宣教師は、その反対に、ベトナム戦争に何が何でも行かない!しごかれるから嫌でなく、自分の父親が日本の東京などの大都市を空爆して、戦後、進駐軍として東京の街を見たら、その廃墟を見て愕然として、それで日本人の魂の救いのために、宣教師になり二歩の語を学んで、日本での伝道活動をした。そして、その息子がベトナム戦争の召集令状を拒絶して、宣教師になった。

良心的徴兵拒否を行い「殺人をしたくない」という理由なのです。

その判断は父親を喜ばせるだけでなく、実はベトナム戦争はまさに無限地獄で、ほとんどが精神障害者、社会復帰不能になり一生精神病院で暮らす人とか、民間人虐殺で良心の呵責に苦しめられ続けて自殺した人もたくさんいたのです。

何を基準でキリスト教なのか?戦争をすることは「十字軍」と発想は同じで進歩していないです。世界中に半分くらいが独裁国家で、地上最大の独裁国家が中国、それに中東やアフリカの大部分が独裁国。イラクのような独裁国家はたくさんあるので、独裁政権打倒のための戦争は、ベトナム戦争で共産主義国家の連鎖を食い止めるためと言いながら、

とにかく何か戦争をするために、最もらしい理由を政府が考え、そして牧師がそれを支持する。特に南部の保守キリスト教(聖書忠実に解釈する教派・福音派とペンテコステ派など)の牧師、その信者が従うので、結果的には宗教ファシズムではないか、アメリカをますます軍国主義・愛国主義を強化させるのがキリスト教ではないか。

で、日本基●教団とかカト●ックなど、戦争には反対、社会のための福利活動を行うが、その反対に、聖書の言葉を、あまり信じていない。

極端な場合は、イエスをキリストと信じてなくても、教会に所属すれば「クリスチャン」と認められる。実際に特に●公会(英○教会)などでは、イエスをキリストでも神でもなく、歴史に残る天才的な教師レベルに落とすのです。

だから、教会員という概念も、洗礼を受けない人でも教会員と同じ扱いされるのは、その人が教会への帰属意識があれば良いのです。

洗礼・浸礼(バプテスマ)を受けなくても、教会に関係あるひと。また、教会墓地に葬って欲しいという遺言があれば、教会墓地に葬ってもらえると思います。

とにかく、どこのキリスト教会内でも、ヒューマニズムとかニューエイジなどの寄生虫みたいなキリスト教を内部から変える危険な人がいるので、むしろ、弱ったクリスチャンを一人だけ狙うモルモン教の方が、目に見える敵だが、内部の敵は、本心を言わない。言う人もいるが、それは、その人も霊が弱ったクリスチャンであり内心、頭の中が整理できず混乱して、頭の中で上手にパーティッションを作り、整理整頓が出来ない人だと、モルモン教の宣教師の話を鵜呑みして盛るもんになる場合があります。

ある人は、自由を求めモルモンになるが、逆に厳しい戒律のためにより不自由になり、今までの価値観を全部捨てなければならないことは、一時的には、モルモン教のバプテスマを受けても、長くても3年たてば、もっと多くの混乱と、モルモン教内の人間関係での苦痛などで、傷つき混乱を酷くさせるだけなので、

所詮は、真理はとても明確でシンプルなのです。

むしろキリストを信じないでクリスチャンといわれる人のほうが、逆にモルモンの方がクリスチャンらしいのではなか?たしかに部外者には理解できな神殿儀式などが行われていますが、日曜日になれば普通に礼拝しているし、彼らモルモンも一部の反モルモンがいうように別のキリストを信じているというが、大部分はそれでも、他の正統派・伝統的キリスト教と比較すると、モルモンのほうが聖書をある程度、信じているので、まして、今後は内部の敵、現代思想に染まったクリスチャンが別のクリスチャンに影響を連鎖的に行うことでキリスト教会を変質させる。モルモン教みたいな別宗教ではなく、表向きはクリスチャンであるが、実は正統な信仰からかけ離れた人たちが教会を乗っ取る場合が今後も起きる可能性は高いです。

だからと言って、思想監視のため、各個人のブログやSNS日記を読んで、危険思想がないか監視する教会の関係者も、ある意味では現代版異端尋問ではないかと思うのです。

真理は単純です!

イエスは文字通り神様の御子であり、キリストです。罪のために十字架で死なれました。、聖書の言葉は全て文字通り解釈(みたま”神様の霊”の導きで)るするべきで、現代的な科学など人間の小さく有限な脳では本当の聖書解釈は不可なのです。

個人的に、

これは遺言になりますが、万が一、近い将来、事故(外部)か身体的(内部)などで何らかの理由で自分が死んだとしますと、当然、教会の墓地に埋葬を希望します。当然、キリスト教式葬儀を希望します。

ブログやWebサイト(教会公式サイトは別)、SNSの日記は全ての人に公開なので削除しないで欲しいが、パソコン内部のデーターは全て削除。ハードディスク・CD-R・RWの物理的破壊を願います。

自分の所有物は全て兄に自動的に移管を希望します。あとは、不要なものは廃棄、売却、個人的に利用をするのは自由です。

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モルモン教がラテン化する21世紀

同じ西欧人でも、英米人とラテン系の人たちとは全然国民性が違います。

日本人と中国人の違いどころではない!ラテン系の人たちがキリスト教を広め続けたのです。

英米系・アングロサクソン系の人たちは、ゲルマン民族の系列であるから、彼がいなければ地球上に機械文明はいつまでたっても発祥しない。

英米系の人たちは勤勉で几帳面なので、ドイツ人に似ているのです。

戦前でも西ヨーロッパでモルモン教伝道をしても英国以外はほとんど成果がでないのは、ラテン系諸国ではカトリックの伝統が根強く、その辺、プロテスタント教会もなかなか伝道活動が上手くいかないのです。

戦前・世界大戦後の戦後冷戦期でも、日本以上にモルモン教信者はヨーロッパでは増えないのは、生活が裕福であり社会保障が整い生活の不安が無いからです。

で、逆にラテンアメリカでのモルモン教の発展は予測以上であり、それは、多くの人が貧困での苦しみ、特にアルゼンチンなどかつては先進国であり、現代はブラジルよりも貧しい人が多い国になり、国家破産状態であるから、孤立しては生きられない社会なので、地上で最も宗教が熱心な国なのです。

当然、キリスト教礼拝出席者数も年々増加傾向であり、特にキリスト教会に不満がある人が、ネットの情報が知らないためにモルモン教に入信する人が多いのです。

ラテン系では、勤勉さとか感じられない反面、陽気な国民性であり、知らない人でも友達になる習性があり、どこの国の人でも話しかけるのは、自分がかつてモルモン教時代にラテン系アメリカ人、英語とスペイン語のバイリンガルの人は、やはりアングロサクソン系の人よりも性格は穏やかです。

スペインを含めて世界大戦にラテンアメリカは、ほとんど戦争に参加しなかったなど、逆に言えばアメリカ合衆国にあまり協力しない国には、かつての敵国以上に酷い扱いをするので、一部のラテンアメリカの国・キューバやベネゼエラのような反米国家も存在するのです。

古神道の神主さんがブラジル伝道したとき、ラテン系の人は、ほとんどが性格が優しい。かつての戦前の日本人のような人情があると言うのです。

個人的には、第二外国語を習うなら、スペイン語かポルトガル語を習うほうが良いと思います。母音の発音が日本語に似ている。

言語もローマ字読みで通じる。

英語だと、舌や唇に意識を集中させて、自分の声が少し変わるくらい発音しないと通じないが、ラテン系の言語(フランス語を除く)は、カタカナどおりに読めば、たいていは通じるのは、母音が日本語とほとんど似ている。

日本語と同じ、子音+母音+子音+母音の繰り返しで、最後に母音で終わるのが似ているのです。(フランス語もスペルが複雑でローマ字読みの発音ではないが、発音そのものがラテン系言語なので、英語よりも聞き取りやすい、発音しやすいと言う情報もあるようです。)

実は、モルモン教の宣教師が何故、三ヶ月で日本語の基礎的会話が覚えられるのか、日本を学ぶのではなく、全てローマ字で書かれた日本語語の会話基礎を暗記するからです。だから、ひらがな、カタカナなど知らないのです。

たしかにラテン系は同じ白人でも全然国民性が違います。

北米と日本のモルモン教が停滞、後退しているというネットの情報が多々あるが、それはモルモン教がラテンアメリカ諸国へ南下して来ているのです。

共産主義国・アメリカと対立しているキューバを除いたほとんどの国で、モルモン教が発展しているのです。

アルゼンチンは、かつては発展した社会から衰退へといたるので、ちょうど古代西ローマ帝国そのもので、原始キリスト教が発展した環境に似ているのです。まして現代は信仰の自由があるから、迫害もないので、その辺が違うのです。

国が衰えると、社会全体が貧しくなると、神様を求める動きが活発になるのです。

特にアフリカ諸国と違い、ラテンアメリカの大国では識字率が比較的に高いのもキリスト教やモルモン教に入信する人が増える基礎があるのです。

では、日本が第二次関東大震災が起きたて、日本が衰退したら、キリスト教信者が増えるだろうか?否!自己肯定できない現代の日本人の若者に、罪の赦されるということが理解させるのは、とても困難です。

聖書など長文で書かれた書物を読んで理解できない。じっとして説教を聴く事もできない。まして、最近流行のスピチュアルと混同する、混乱するので、日本の若者が自信を持たない限り、どんなに美味しい伝道方法をやっても、無意味です。

キリスト教などが発展するには、国民性が重要な要素なのです。

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低価格の英会話教室での伝道

モルモン教では毎日の伝道活動で無料英会話教室のチラシを配って伝道をします。

キリスト教会と大きな違いとは、彼ら宣教師は、わずか三ヶ月で日本語を覚えるのです。たぶん、発音記号とローマ字のみで会話を効率的に覚える秘訣があると思います。(辞書を使わず単語を覚えず、文法ごと丸暗記とか)

だからモルモン教宣教師は、日本の文字・ひらがなやカタカナが全然読めないのです。漢字などチンプンカンプンですが、それでも日本語が話せるのです。

第二次世界大戦後、アメリカが日本占領時に、合衆国の有力な人たちを今後送り出し続けるには日本語の書類を読みやすくするために、日本語を全てローマ字化政策を当時の政府に圧力をかけたが、識字率が高いとか、日本文化の破壊行為になるとか、逆にアメリカへの反心を煽るなるなど、日本語のローマ字化は失敗しました。

でも実は漢字が無くなれば、自分の子ども時代は、漢字で苦労しないですんだ、ローマ字化したほうが学力が向上したかもしれないし、外国の学校にいた生徒が漢字で苦労しないですむとおもうのですが。

で、英会話教室で夏休みに犠牲的な奉仕をしてくださった方にはたいへん感謝しますが、実はあるサイトではこんな意見があります。

http://religion.web.infoseek.co.jp/religion/icc_doc/icc_nomura.htm

英語教室について

日本社会に於けるキリスト教が置かれているいろ

いろな問題に対する関心や興味は見られず、日本語の準備も殆どなく、陽気で無邪気

なアメリカ人青年たちが「指導者として日本人を教える」という発想です。

  この事をよしとする日本側の教会や伝道者もあれば、苦々しく思う教会や伝道者も

います。  そして、鉄のカーテン崩壊後には、旧ソ連邦各地に同じような主旨で勇ん

で「伝道」に出かける米国教会や米国の青年たちが後を絶ちません。

合衆国からの人たちへ悪意はないが、自分の「日本人はアメリカから多くの事を学んだ」という発言も、それはアメリカが世界の中心という日本を低く見下すという発言になるのです。日本には日本にしかない高い文化があるのです。

その辺、反省します。

それは、イエスを殺害したユダヤ人が世界で最も優れた民族であるという自慢からイエスを殺した。選民意識が神様を殺した。そして時をへて西欧人が新大陸の人たちの文化をすべて焼き尽くした。根絶させて強制的に西欧の文化を教え込んでやるという選民意識。そして、全世界の大部分が西欧人の植民地になり、そこから世界が大混乱を起こして、大量虐殺の時代が始まった。

(こんなこというと、中川健一さんから批判が来ると思うが)

イエスを殺したユダヤ人の子孫が、けっしてろくな事をしない!

パレスチナ問題は、それは独善的なユダヤ人が強引に先住民を強制的に排除させて、いまでも悲劇が続いている。攻撃すれば報復する。

だから、神様を殺した民族は、たとえ同胞でさえも虐殺すると考えるのです。

まず、一つはLSTのありかたを考えて見る。それもあと11ヶ月もあるのです。短くとも10ヶ月も思考する期間がある。

ただ、LST5週間だけでは、だれかが洗礼を受けてクリスチャンになるのは無理であり、教会員と話し合えただけで、それだけで十二分の成果があったと自分は思います。また、はるばるアメリカから来た人たちが何も不満を言わず無事に終了したことも十分評価するべきところです。

一部の教会員でも、ほとんどノータッチの人もいたし、

それは、上記のように日本語を大事にしない人が外国語を習う事がナンセンス。キリスト教や聖書の教えは全ての民族に平等である。人種・民族・文化・言語で人間の優位をつける神様はいない。

来年度はどうするべきなのか?北米のキリストの教会では期待がかけられているので、たぶん来年もLSTが行われるのは必至だと思います。

キャンプは?若い人の参加者が少なくなった。その反対に子どもが多くなった。

日本語が全然喋れない人とのコミニケーションをどうやって取るべきなのか?

健康状態の問題、途中で風邪を引いたとか、睡眠時の問題、または事故による怪我など、深夜などの緊急連絡など。途中参加は可能なのか?

実は、言葉で上手く表現できなかったこと、アメリカ人が喜ぶようなゲームが日本人である自分には、時には「しらける」ときもある。変に義理で付き合うのも相手には、とても失礼なので、これは「しらけた」と感じた時、無理に付き合わないで、その場にいないで、それが終わった時に、話しかけ、カタゴトのコミュニケーションを取るだけでも十分だと思います。アメリカ式のゲームは子どもには受けるが、大人だといまいちなのです。

で、はるばる北米から来て、自分たちが何もしないで放置では、それは、あまりにも薄情です。日本には良い印象を持って帰っていただき、帰国後は日本は良い国だということを伝えていただけたら幸いです。

野村基之先生は、LSTに必要以上に心配しているのですが、実は初めての人だと5週間だと、外国人と英語で話しができたしか印象がなく、キリスト教への改宗まで、さらには日本文化を低く見下し、アメリカ文化を高く見るということは、たぶん無いと思います。既にアメリカそのものが衰退化、弱体化し、さらに多言語国家・英語が通じなければスペイン語を使えばという状態で、いろんな民族が増えてきている、だから中核であるアングロサクソン系の比率は年々低下してきているのです。

アメリカ文化とは北米に定住したアングロサクソン系の人たちの文化なのです。

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信仰の継続が何故できないの

信仰生活は楽しく行わないと続かないと思います。

最近は、自分の状況は日に日に悪化しているのは、うつ状態が酷くなり、気分転換が出来ないからだと思います。

あとパソコンにのめりこみすぎて、一時期はブログの書き込みを制限しました。

それでも駄目なんです。

まず、信仰生活が楽しくない原因は、対人関係があると思います。

気が合わないとか、だから、その人とは会話を極力しないなどもあります。

でもモルモン教だと組織化されており、あえて気が会わない人と一緒にする指導者がいるため、相手が強く出ると、その人に対して言葉の暴力を行い続けて、凹ませ続け、それが、酷い鬱病へと至らせるのです。

ただ、辛いから辞めるのも、意外と少なく、

自分の体験だと、我慢した物が一気に大爆発して、それが辞めるきっかけになったと思います。だからどこかでストレスを発散させガス抜きをする工夫が必要です。それが1980年代の楽しいイベントやキャンプなどです。

1990年代にもありましたが、何かワード内で派閥ができ、主流派出ない人を排斥するような動きがあり、だから話しかけても、会話がなりたたないのです。こちらが悪意がなくとも、相手は何らかの理由で敵意を抱いているので、ワード内が分裂した状態なのです。

かれら主流派は主流派のための、主流派だけのワードにするために、非主流はを排除させるのです。

敵意を持つのは

信仰が弱い人、逆に献身的がゆえにそれが嫌味に感じる人、かなり真面目な性格が気に入らない。敬虔な信仰の話だと思っていても聴くほうは、聴きたくないために席から離れるなど、

キリスト教会ではありえない強烈な分裂行為がモルモン教会では行われていたと思います。

キリスト教会でも、2月のキャンプでも、理由が解らないが自分に敵意をむき出しにする若い男性もおり、モルモン教と共通しているのは、吐き出したいほど強い違和感、異様さ、さらに受け入れがたい雰囲気、生理的に強い嫌悪感などもあると思います。特に見た目が気に入らないなどです。

それから、コミュニケーション能力が自分が若いときと比較して退化している。長文の質問の意味が理解できない。だから若い人には、「何する」「これからどうする」「どこへ行く」なら通じますが、「あなたは今日は、どこに行くのですか?そこで何をしますか?」という質問だと、相手は長文を暗記できないので、意味が通じない人が増加しているのです。

ケータイでメールがそれが顕著になり、一日10件以上は当たり前で、断片的で単語の羅列のみですから、文章になっていないのです。丁度、チャトよりも短いのです。

今後は「え!」「はい」から「?」「(^^;)」「(TT)」へと言葉にならないメールになるのではないかと思います。そのような人が活字を読むことはほとんどなく、Websiteの長文を読んでも理解不可能です。それでも少子化のため、長文が読解ができない、長文が書けない人でもどこの大学にでも入学ができるのです。

ケータイさえあれば24時間、風呂トイレでも誰かとつながっていられるのです。

それに、加速度的にリアルな人間関係が冷え込みすぎているので、だから、あえて敵意を抱き続けるのではないかと思うので、リアルな共同体そのものも存続不可能ですから、若い人の宗教は、ケータイでのバーチャル礼拝だと思います。

説教の内容も、長文でなく、断片的な日本語で、単語を並べるだけでないと若者にはメッセージが理解できないのです。

二度三度の繰り返しと、たとえを引用するしかないです。

現代人は脳が退化した状態であり、特に言語と理性・自制心の部分が大幅に退化したので、理由無き無差別殺人が連鎖的に置き続けるのです。

コミュニケーション能力の欠如と、対人への愛が冷えている、自己中心主義(個人主義とは全く異なる)など、人類の歴史で、人間がこれほど退化を促した文明社会を経験する時代に生きているのですから。

だからやはり夫婦生活と同じで、ストレスやフラストレーションは我慢すればするほど、いずれ大爆破発するので、ガス抜き、健全な娯楽が必要だと思います。

実はキャンプに関しては、モルモン教会の方が、上手だと思います

(上記の説明・モルモン教ではキャンプとは呼ばす、サマーカンファレンスと呼び、18歳以上の独身成人による各地の教会合同の研修会と親睦会を、自然が多い場所で行います。そのために、半年間の準備期間で各地の教会の青年会”独身成人”が、夏のイベントが成功させるために定期的に「会議」を行うから、カンファレンスなのです。だからキャンプではくカンファレンスなのです。)

小さな少人数グループでディスカッションをしながら、お互いに相手のことを知り合えるので、そこから偏見や嫌悪感がなくなるからです。話しをしてみたら、意外と相手の良いところ、または第一印象とは違う部分を見出せるのです。

信仰の継続は、献身的な態度だけでなく、休息と娯楽が必要だと思います。

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2000年代になってモルモンは良くなったのか?

最後にモルモン教会に来たのが今から丁度10年前、2月15日です。これを最後に二度とモルモン教会関係の宗教施設に行くことは無いです。

ただし1999年度に、一度だけ北千住ワード(?の宗教施設)に、反モルモンに同情的な人がいたので、そこに行く予定でしたが、遠いため行けませんでした。

ネットで調べたら、モルモン教会用語が少し変化しており、ステーク副会長や副監督などは全て「顧問」に統一され、独身成人は「独身会員」になっていました。

まして当時、10年前に反モルモンをしていた人の消息がほとんど不明であり、当時のメーリングリストのログもどこかになくなってしまいました。

高尾と横田基地近くにモルモン教会の新しい教会堂が出来た事は知っていますが、自分にとってモルモン最盛期である1980年代の状態はほとんど忘れ去られており、むしろイエスキリストがいた時代よりもはるか過去の産物になりつつあるようです。

あるブログにあるように、反モルモンと思える人がいまだに、2ちゃんねるなどの匿名掲示板などで、仮想上の活発モルモンへ罵倒するのを見かけますが、モルモンと反モルモンは、ほとんどが外国人宣教師からモルモン教義を知らされて会衆たというところは同じだから根っこが同じであり、両方を写す鏡みたいな状態ですから、反モルモンの不活発化は、モルモン教そのものの衰退化、正確に言えば、世代交代による質の向上化と組織が若干縮小化したのではないかと思います。

頓珍漢な人はモルモンでもクリスチャンでもいるので、このような人がネットに出てもリアルな現実にある姿を写しているわけでなく、たんなるバーチャルな世界に過ぎない、ある意味ではゲームみたいな物だと思います。

たしかにキリスト教会の牧師先生でも人格的に「?」と思える人がいるから、匿名掲示板で暴言を吐き続けるのは、その人の人格が未熟なだけで真実を述べているわけで無いです。

その意味では2ちゃんねるからの発言は宛てにならず、ブログやホームページからの情報の方が重要だと思います。

では、頑張ってモルモン教信仰を続けていたらどうなっていたのか、同じように仕事が忙しい極端に疲労感を感じる体質のため、モルモン教を続けるほうが難しいという事もあり、さらに自分に敵意をもつ教会員もいるので、堂シュミレートしても次第にモルモン教団から離れてしまうと思います。

ワード部の分割でも、それでも地域別に単純に別けるだけですから、結局は敵意を持つ監督が支配していれば、遅かれ早かれ確実にモルモンを離れると思います。

どのようにシュミレートしても同じだと思います。

むしろ独身成人(青年会)の集会にでても、年齢的なものがあり、それについていけないのが火を見るよりも明らかで、かつてはプライマリー(小学生以下の日曜学校)の生徒が、2000年代には20代になり立派な大人になり、その世代の人たちが結婚などして、さらに子どもができるとなると、自分の立場としては、たんなる高齢教会員とみなされ、特に独身者に対する目が厳しい物があるため、かなり強い意志がない限り、信仰の継続は不可能だと思います。

教会に行っても強い孤独感を感じる、より酷い、うつ状態にしてしまうため、どう考えても不活発化は確定だと思います。

理想的な礼拝状態にはならないのは、礼拝も真剣勝負そのものですから。

その真剣勝負も、対人関係とか隣人愛などの気遣いでなく、礼拝の形だけに囚われるからです。

スーツに髪の毛がついていたり、ネクタイが曲がっていたら、それだけで礼拝の雰囲気をぶち壊しになるというからです。「完璧と全力」がモルモン信者の命なのです。

一度もモルモン教会に訪問していないので、良くなったかどうかは一切不明であり、1980年代に改宗者が監督やステーク会長になり、独身成人(現在では「独身会員」へと)がモルモン2世になっています。

写真を見ると、東京キリストの教会の人たちと、モルモン教会の人たちの雰囲気が良く似ているような気もします。

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キリスト教会に通ってクリスチャンがうらやましく感じた

「キリストの教会」に行く前は、急激に生活が変わることを恐れ、もしモルモンを辞めてクリスチャンになったら、どこの教派が良いのか、良く解らないでした。

とにかく、結論としては教派がどこに所属ではなく、自分の人格が正しい方向へ導く教会を選ぶことが最優先です。荻窪のセブンスディアドベンティスト教会に1995年11月4日頃(土曜礼拝)に出ました。

まず聖餐式があり、モルモン教の癖で、パンが配られた時、それをすぐに食べてしまいましたが、他の人は、そのまま手に取ったままで、あとブドウ液が配られ、それもあとで飲むのです。配られたれら同時に、キリストの身体の象徴であるパンを食べ、血の象徴であるブドウ液を飲むのです。

人数が多く、約200人近くの人が礼拝に出ていました。

パソコン通信では東京中央教会の方がお勧めですよと言われました。

後に立川市に東日本教区本部の建物が完成して、1998年12月初旬の土曜日に行きました。丁度、昼食会があり肉食を一切使わない料理がたくさんでており、大豆のハンバーグなども美味しかったです。で、教団のパンフレットをもらいました。なんかとてもよい雰囲気なのですが、モルモン教で辛酸な目にあっただけあって、逆に気持ち悪く感じました。

同年12月20日(日曜礼拝)に初めて現在通っている教会に行きましたが、礼拝の雰囲気が、とても軽い感じが印象的で、ほとんどの人が普段着で堅い雰囲気が無いので、モルモン教と比較すれば、こと細かい教会の標準もないし、個人の裁量によって何事も決められる、上層部の幹部の声一つで、何でもかんでも決められるのでなく、自己責任で何が良いのか判断できるところに強いインパクトを感じました。自由と安心による神様の礼拝が手に入るわけです。その意味ではモルモン教を辞めようか続けようか迷いました。

だがその迷いを打ち砕くような出来事は、1998年2月15日(日曜日)の礼拝終了後に突然に、当時ステークの高等評議員の栗原さんから声をかけられ、なにか自分に責任を与えられるのかなとおもったら、奥にある個室で、二人きりになり、栗原さんが、信仰生活宣言書みたいなものをワープロで作成した物があり、それには毎日モルモン書を30分読むとか、そのほかにいろんな事が書かれており、「あなたももっと頑張りなさいよ」と言われ、「疲れてやっとの思いでワードに来たのに、そんな言い方ないだろう!」と思い、きっぱりと「できません」と答えたら、「そんな気持ちなら10年先に、あなたは後悔しますよ」と言われ、「なぜ急に、びしばし頑張るように求めるのですか」と反論して、ちょっとした口論になり、もしその場で感情を爆発させれば、後々栗原さんを恨まないで済んだかもしれません。

過去の愚かなことや、現在やっている愚かなことを、バカ呼ばわりされることは、すぐに許せるが、

1987年4月後半頃(27日頃かも)に、「あなたは一生結婚できない」と将来を宣告するようないわれ方するのは、最も赦せないです!

肉体上の欠点を言われる以上に人の将来を勝手に決め付ける言い方をするのは、赦しがたい行為です。

そのような人間性が欠けている人が教団の指導者にさせるから、教団内部が必然的に腐るのは当然であり、常識的な思考がある人は遅かれ早かれ離れるしかないです。

結局、彼を赦せるようになったのは5年かかったと思います。

それまでは、あったら怒鳴りつけたい、いや、殴ってやりたいという気持ちになりました。

それでも、まだ迷いが吹っ切れないので、クリスチャンが経営しているカウンセリングで、モルモン教から離れた時、自分は地獄へ落とされるのとか、将来が暗黒になるのか不安で仕方ない状態でしたが、その不安もしばらくしたらなくなりました。

人間は良きも悪きも、忘却する生き物であることを実感しました。

似たようなことがあると過去のことを思い出すという性質があります。

モルモン教会の標準の押し付けからの解放、モルモン教会内での指導者の強者のみ味方する態度から解放されるだけでも、クリスチャンになる価値はあると思います。

信仰は一生ものですから、どんな宗教でも自分の身は自分で守るしかないと思います。信仰生活をする上では、教会員同士の信頼関係が無いとできないです。

大きな違いは、世界全体的な組織化された教団から、ネットワーク上の単立教団へと移動したことです。

ピラミット型の中央集権から、クモの巣状地方分散型への環境が変化したことです。

個人の道徳基準も上から押し付けられて考えさせる余裕を与えない、思考の停止から、

個人の自己責任において自分で何が良く何が悪いのか判断させるところが大きな違いです。

逆に「個人の夢の実現で神様を服従させる信仰」から「神様の望むことを行う、神様に服従する信仰」です。

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